7月1日〜


渡部陽一イラク日記

2004年6月27日


羽田空港から関空にとびアラブ首長国連邦のドバイに入った。エミレーツ航空を使うのは昨年以来である。非常にサービスもよく快適なフライトである。飛行機の乗ること自体が大好きゆえに長時間フライトになればなるほどうれしくなる。機内で物思いにふけりながらビールとトマトジュースをがぶ飲みした。すぐ寝てしまった。ドバイでは空港内トランジットが6時間ほどあった。買い物をするわけでもなくカフェでパソコンを弄り回していた。成田空港や関空が世界でもきれいな空港だと感じていたが決して壮ではないことにきがつく。このドバイの空港といいイスタンブールとクアラルンプールといい空港に関しては日本はまだまだ後れている気がした。そしてセキュリティーの厳重さが桁外れに外国の空港は厳しい。何も持っていないのであるがいつもびくついてしまう。アラブ諸国のなかではドバイがやはり国際性といい裕福さといいずば抜けている気がする。人柄もみなクールだ。イラクと同じ気温を持ちながら湿気が半端ではないこの地は旅行するには高級ホテルに泊まるしかすべはなと感じた。ドバイに下りるときフライトアテンダントの方がなぜかおにぎり5個と牛乳500mlパックを2つ持たせてくれた。すごいサービスだと驚いた。





2004年6月28日


バグダッドに入国するために隣国ヨルダン・アンマンに入った。空港でバグダッド行きのチケットを購入した。街に出て一泊する。空港からタクシーに乗った。20ドル支払った。ホテルは常宿のクリフホテルに宿泊、一泊シングル6ドル、保管していもらっていた取材荷物から防弾チョッキを取り出した。夕食はフンモスというヒヨコマメのペーストと小型生たまねぎを4個食べた。日本人の旅行者がたくさんいた。バグダッド帰りの人たちも何人もいた。みなバスでバグダッドに入っていた。何気に安全な方法であると感じた。ヨルダンには20回近く足を運んでいるが街はいつもと同じであった。イラク人と違って妙にクールな人たちであるといつも感じている。出発の荷物を確認しパッケージする。いつもの陸路の移動をさけ今回は空路でバグダッド入りとなる。日本人拘束事件から安全対策を見直すようになった。思わず勢いで突き進みそうになるときに一歩引くようにした。カメラマンとして失格といえる引きの姿勢がなんとも情けない限りであるが今回は計画通りにこまを進めていくことにした。インターネットカフェでニュースをチェックし部屋に戻りパッケージした荷物を何度も開いて再確認した。明日は朝一でバグダッド入りとなる。気が高まり寝付けなかった。部屋の中を動物園のクマのようにぐるぐると歩き回っていた。





2004年6月29日

バグダッドに入国した。お昼にはホテルアルファナールにチェックインする。いつものスタッフのお出迎え。宿泊費のディスカウントなし、一泊30ドル。そのまま取材に突入、バグダッド市内から郊外に出向いた。シャッターを切り続けた。気分は爽快だ。再びバグダッドに戻れただけでこうも気分のチャンネルが変わるものなのかと驚いた。一分一分が興奮の連続だ。相変わらずの米軍の姿もそれを取り巻くイラク人女性の姿も変わっていなかった。早朝のイラク人ビジネスマンの出勤風景はさながら日本顔負けの大渋滞を引き起こしている。仕事がほとんどない今のイラクで仕事を持っているだけで幸せゆえに一度つかんだ仕事を手放すことはない。各会社のイラク人オーナーというのは外国人には非常に優しいがイラク人職員に対してはまさに鬼の待遇である。少しでもミスをしたり命令を聞かないのであれば手は出る、罵声を浴びせる、そしてクビという不当解雇極まりない状態だ。日本のビジネスライフより俄然厳しく理不尽なものがある。それでもイラクの人たちは元気いっぱい、冗談を飛ばしながら毎日をたくましく生きている。私は頭が下がるおもいであった。夜にはしっかりとホテルのベッドで眠った。ぜんぜん眠れなかった。





2004年6月30日

バグダッド市内をカメラ片手にくまなく徘徊する。市内で動きがなければ少しずつ郊外に出陣することになる。取材よりも安全を考慮しつつ、ガイドやセキュリティーと共に一日の時間を費やす。バグダッドは異常に暑い。47度を観測した。食欲がなく水分ばかりを摂取する。バグダッドでお勧めの飲み物はミリンダというオレンジ炭酸ジュースである。異常においしく感じる、一日に1.5リットルは飲んでいる。しかし不思議なことにほとんどお手洗いにいくことはない。汗となってすべてが放出されてしまう。主権移譲してからも物価に関しては変化が見られない。ホテル一泊、30ドル、インターネットカフェ1時間1ドル、鶏肉定食一人前1.5ドル。イラク世論が政見移譲に期待していないことが市民生活から見えてくる。本日の一日の動きは朝6時50分起床、水ブロ10分、朝食コーヒー1杯、メールとニュースチェックの後ガイドと合流、そのまま新聞スタンドでイラク新聞全紙を購入、すべてチェック、車でバグダッド市内、郊外を徘徊、午後2時昼食、ケバブという羊の肉の串焼きを2本、パン一切れを食べる。食後にお茶1杯、市場の様子を見に行く、時間が遅く商店のほとんどがクローズしていた。ジャーナリストの宿泊するホテルに挨拶回り。夕方5時にホテルに戻り再びネットチェック。夕食はイタリア人、カナダ人、チリ人カメラマンと共にする。みなくたばっていた。特にチリのサンチャゴから来た新聞社カメラマンはもう帰ると何度も繰り返していた。夜は写真を整理し配信した。物思いにふけり午前1時30分就寝、熱くてほとんど眠ることができなかった。





2004年7月1日  

バグダッド時間早朝、午前7時30分、私が宿泊しているアルファナールホテルが爆音でずしりと揺れた。ベッドでうとうとしていた私はその爆音で飛び起き枕元においてあるカメラを持ちまずベランダに飛び出した。目の前にあるシェラトンホテルに迫撃砲が命中している。さらに私のホテルを挟んで裏側にあるバグダッドホテルがやはり攻撃を受けている。もくもくと黒煙が立ち上っている。その数秒後今度はホテル脇に止めてあるミニバスが爆発した。距離が近いゆえにその爆音が強烈だ。そのまま外に飛び出し現場に駆けつけた。
米軍が次々と現場に駆けつけてくる。爆破されたミニバスからはモートンとよばれるロケットランチャーの筒が7本ほど転がっている。人が殺到し消火活動、そしてバリケードを張り巡らしている。写真を撮り続ける。こうした爆破現場は唯一米軍を気兼ねなく撮影できる混乱状態である。普段は米軍にレンズを向ければ発砲されるというリスクをしょいこまなければならないが爆破現場ではカメラマンも米軍もごちゃ混ぜに動き回っているゆえに写真は撮り放題である。それこそ数十センチの距離でシャッターを切る。怒鳴り散らす米軍を無視して怒鳴る米軍を撮影する。ものすごい数のカメラマンがこうした現場には駆けつける。バグダッドらしい朝がスタートした。早朝からエンジンがかかりまくりである。バグダッドやはり相変わらずの状態なのだと実感した。





2004年7月2日

バグダッド市内のみで通用する携帯電話を購入した。イラク取材においていかに通信手段を確保するかが取材を成功させるコツなのであるが、このバグダッド携帯電話というものは非常に優秀なものである。メールはもちろん、写真付き携帯から、多国籍言語使用対応と日本顔負けの機能を持ち合わせている。一台購入するのにボディーが約60ドル、シムカードというICチップが70ドル、それ以外にプリペイドカード60ドルを購入し合計で190ドルで手に入る。バグダッドの若者たち、特に大学生はいかに最新機種でデザインが珍しく、派手な色のものを持っているかがステータスとなっている。この携帯電話が一番活躍するのは広大なバグダッド市内で突発的に起こるレジスタンス活動、自爆テロ活動、米軍攻撃、殺人事件といったその現場がどこなのか、ネットワークを通じて誰よりも早く駆けつけるチャンスに恵まれることにある。ニュースとしてながれる前どころかそのニュースソースを自らがレポートするチャンスに恵まれる。イラク取材では情報のスピードと収集力が勝負となっている。言葉が通じないといった問題はない。現場にいるかいないかで天国と地獄に分かれる。この携帯を持ったことで活動範囲が広がった。日本でかつて始めて携帯を持ったときの新鮮な気持ちを再び感じた。





2004年7月3日 

バグダッドにあるホテル、アルーハムラーホテルでストリンガー(戦場カメラマン)のお別れバーべキューパーティーに参加した。1年以上いたカメラマンが数人バグダッドを離れる。治安の最悪なイラクの中で夜7時過ぎからホテルのプールサイドで総勢50人以上のカメラマン、ジャーナリストが集まり仲間のイラク出国、母国への帰国をたたえた。このバーベキューパーティーというもの、いまだ戦時下のバグダッドの夜において夜中の2時近くまでみなビール、ワイン、ケーキ、アイスクリーム、膨大な数の鳥のもも肉、何十枚とある巨大なT-BONEステーキをみな体内に吸収させていた。国籍もオリンッピックのようで誰がどこの国籍なのかまったくわからなかった。バーベキューしている脇のプールではパンツ一丁で泳いでいる初老の男性があふれ、その上空を米軍の偵察ヘリが低空で飛んでいるというなんとも不思議な空間であった。みな取材において夜間移動を避けているのであるが、パーティーとなると夜中だろうとタクシーをチャーターして遠くからはるばるやってくるものもいた。若いカメラマンから高齢の有名カメラマンまでお互いの取材の報告や情報交換を楽しみながらもみな恐ろしくビールを飲み続けていた。私は恐怖を感じ夜12時にタクシーを捕まえて宿に戻った。世界のカメラマン、みないかれているが力強くて魅力的であった。こうしたパーティーは2度目であった。身震いするほど勉強になった。





2004年 7月4日

バグダッド取材を続ける。日中の気温が46度を突破した。私が宿泊しているアルファナールホテル705号室はサウナのようになっている。たこ足配線を絡ませたカメラの充電器やパソコンのケーブル、電話、プリンターのジャックが強烈な熱を発している。機材の危険を感じ、ホテルオーナーに7階の部屋から5階の506号室に切り替えてもらった。わずかでも太陽の灼熱から地上に近いほうへ移動したほうが熱の伝わりを防げるであろうと勝手に決め付けていた。夕食を日本人ジャーナリスト、カメラマンの方々と共にさせていただいた。現地時間夜8時過ぎからホテルの食堂でスパゲッティーボロネーズを食した。うどんのような麺でかつカチカチでじつにおいしくなかった。ジャーナリストの方々はステーキを食べられていた。スパゲッティーで税込み6ドルもすることに驚いた。このアルファナールホテルには世界中のカメラマンが泊まっている。有名な方から一発勝負で家族を捨ててこられた人とざっくばらんというより世紀末的雰囲気がホテルを覆っている、自家発電機が壊れ昨晩は5時間以上の停電が続いた。あまりに暑さに眠れず奇妙な夢ばかり見て朝を迎えてしまった。朝一からの病院取材で患者さんと接して、その悲劇に涙する一日であった。





2004年 7月5日

イラク国内で活動するカメラマンにとって暫定政府がスタートしてからの取材活動はいたってシンプルなものになりつつある。カメラマンにとってのイラク取材とはいかに激しい戦闘の最前線に出るか、そこで被写体に対していかに近づいてワイドレンズで迫力あるカットを抑えることができるかにかかっている。ちょうど2ヶ月前の日本人拘束事件が多発していたとき、バグダッド市内は戒厳令がしかれたように人の姿が見えなくなっていた。そしていたるところで迫撃砲の攻撃や米軍と武装勢力との交戦が繰り広げられていた。カメラマンはその現場に誰よりも早く入り弾丸の飛び交う中での撮影を余儀なくさせられていた、というより好んでそうした場所に飛び込んでいた。6月28日の暫定政権スタートからバグダッド市内での武装活動はかなり沈静化しつつある。喜ばしいことだ。その代わり被写体がなくなりカメラマンは朝から晩まで街中や郊外を流浪の民のごとくさまよっている。どこかで米軍の総攻撃や事件に遭遇しないか、カメラを片手に悶々としている。治安は依然不安定なのであるがバグダッドにいるジャーナリストたちはその恐怖感が麻痺しつつある。事件がなければないほどより深い場所に入り込もうとしてしまう習性がある。こうした心理が動き始めたときこそ要注意である。一度捕まったら生きて帰れないとおもうと一歩引くことができる。





2004年7月6日

朝一でバグダッド市内の最大マーケット、ショルジャマーケットとアリババマーケットを取材した。物資は豊富でお金さえ出せばほしいものは何でも手に入る。電化製品から食材から衣服まで隣国のシリア、サウジアラビア、ヨルダン、エジプトから輸入されてきている。日本で古着が高価な値段で取引されていることは重々承知しているが、バグダッドの古着市場はまさに宝物の宝庫である。デッドストック物はもちろんこの御時世にまだこのようなジーンズやアウターがさばかれているのかという骨董品級のものがわずか3ドルほどで売られている。戦時下を行く年も経験してきているだけありミリタリーグッズは趣味を通り越した本物、実戦使用のものが大量に手に入る。ジャーナリストたちが防弾チョッキを購入しようと思えばアメリカ軍仕様、イギリス軍仕様、ポーランド軍仕様、韓国軍仕様といかなるモデルも手に入る。実際に購入して前線で使っている記者も多い。バグダッドというと廃墟のようなイメージが先行するが実際は買い物天国、教育水準も高く、非常にプライドも高い、そして義理人情にも厚いという実に魅力にとんだ街である。いつか戦争が落ち着きを見せたときこの地が世界で名だたる観光ポイントになっている可能性も無きにしも非ずである。






2004年7月7日

バグダッド中心部のハイファストリートでムジャヒディーンと米軍、イラク人兵士が衝突した。死者は4人という報告であるがかなりでかい戦闘ゆえに数はより多いものになろう。
日本でいったら渋谷の道玄坂あたりで銃撃戦が繰り広げられるような感覚である。街の真ん中の真ん中だ。しばらく静かなバグダッドが続いていたゆえにこうした現場に駆けつけることには興奮を覚えた。それにしても街中でムジャヒディーンが平気でRPGランチャーを放っているという現実が改めて安全対策を考えさせるきっかけになる。街中で取材を続けていて嫌な空気が流れているエリアはたくさんあるのであるが、気付かぬタクシーなどから誰が自分を見ているか、銃口を向けているか気付くことは不可能である。カメラを持ってイラク人セキュリティーと共に動くも遠距離から一発食らえばそれでおしまいである。派手な動きはしないようにしているも気ばかりが先行してしまう。イラク人ガイドたちがこれ以上はまずいというときはその命令に従う。日本に帰国して初めて取材が完了ということは肝に銘じている。日が沈んでからバグダッド駐在の新聞社の記者の人たちとお話をした。トップニュースはここ最近ない状態であるが、地道に取材して行くことが大切であるとアドバイスをいただいた。みな50度近い暑さに参っているといっていた。バグダッドで有名なパレスティナホテルも空調の調子が悪かった。イラク人スタッフともども体臭を放ちまくっていた。





2004年7月8日

あまりの暑さで頭が痛くなってくる。先月終わりにバグダッド入りしたときよりも明らかに気温が上昇している。日中の直射日光では50度を越している。脱水症状とカメラの故障が心配である。ラシッドストリートという旧市街繁華街に出向いた。生活雑貨を売りさばく商人たちがあふれかえり何かとちょっかいを出してくる。車は交通渋滞を引きおこし、それを取り仕切るセキュリティーガードが銃口を構えて検問をはる。カメラを担いだ日本人の私に対して激しい職務質問と所持品検査もおこなった。話しがずれるがバグダッド南部でなくなられた橋田さん、小川さんの殺害現場その直後の映像を見る機会があった。その中身は橋田さんとそのドライバーがマフムディアで事件に巻き込まれその翌日の朝一に二人の遺体がマフムディアの病院で保管されているものであった。原形をとどめていなかった。完全に黒こげ状態となっていた。あの事件があってから在イラクジャーナリストたちは安全対策の重要性を再確認した。イラクはいまだ治安の安定しない無法地帯であるということをカメラマンとしてかみ締めた。今日まで無事に取材を続けることができている。いつ何時事件に巻き込まれるかは誰もわからない。やられる可能性は非常に高い。万全を期しているつもりでもイラク市民から見ればお話にならないセキュリティーのレベルであろう。一日一日、宿に戻るたびに今日は大丈夫であったと身震いしながらかみ締めている。





2004年7月9日

バグダッド郊外にあるタージという場所にある農家を訪ねた。アブーアヤーさん一家はひと屋根のした20人で暮らしていた。バグダッド市内と比べて実に自然密着型の生活を送っていた。庭には牛や鶏や犬が走り回っていた。ライフラインの電力も近くの電力所から勝手にラインを引きほぼ24時間不自由なく電力消費をしていた。収入はほとんどないが自給自足で葡萄やイチジク、トマトなどの野菜を栽培していた。私が取材で訪れると近隣の農家の方々が次々とやってきてみなでお茶を飲みながらアルジャジーラニュースを見た。今日のトピックはブルガリア人が武装勢力に拘束され軍の撤退を要求しているものであった。農家の人たちはみなもともとイラク兵士たちであり一人はかつてのケミカルアリと恐れられていたアリーハッサン氏のボディーガードを務めていた人であった。外国人拘束の事件についてはイラク人として情けないとため息を漏らしていた。米軍を攻撃するならまだしも外国人の民間人を拘束することはルールに反するといっていた。このうちには子供がうなるほどいるのであるが11歳の少女が印象に残った。生まれながらにして脳に障害を持ってしまったゆえ物を記憶するということが非常に困難であると父親は言っていた。挨拶をした感じはまったく普通で家族やご近所さんみなに愛されていた。イラクの大家族の家族愛というものはあまりに愛情に溢れていて、うらやましかった。この日記を書いている午後9時45分、ホテルの前で爆発が起こった。すさまじい音でベランダに飛び出し場所を確認し現場に入った。





2004年7月10日

ロイヤルヨルダン空港でフライトのリコンファームを済ませた。まだイラク取材は続くのであるが、いざ帰国となったときにフライトが取れませんでしたでは大変なことになってしまうので早めにブッキングを確認した。イラク人がテレビの前に集まり真剣なまなざしで画面を見つめている。再び人質拘束かとおもい近づいてみるとチャンネル2の映画を鑑賞している。題目はゴッドファーザーパート1である。米軍駐留は断固としてみな反対しているのであるがアメリカ映画は好きだという。何より面白いという。ゴッドファーザーを見ながらそれぞれがウンチクを述べていた。アラウィー地区取材に入ったときに再度防弾チョッキを購入した。アンティバレットヘルメットも購入した。かつてから持っているものがあるが重すぎて身動きが取れなくなってしまうものであった。故により軽くて実用性にとんだものを手にした。価格は150ドル、これ以上まけてもらうことができなかった。毎日自分の着ているt−シャツが潮を吹いている。色は黒なのだが汗で白く変色している。どれほどの汗をかいているのか、食事も十分にとらず水ばかり飲んでいる。明日も朝一で水を飲みまくろう。





2004年7月11日

イラク貿易銀行のチェアマンのインタビューを撮らせていただいた。数日待ちぼうけをくらってしまいやっとの面会だ。国際銀行としてアメリカや日本の銀行との提携のながれやイラクの銀行としてのポリシーを伺った。銀行前では商人たちが100ドル札の500枚以上の束を分配していた。金があるところにはしっかりと集まってきている。したたかな国際ビジネスでイラク人の気質は非常に強いかもしれない。義理人情を持ち交渉はハードだ。絶対に引かない駆け引きをする。昼食にケバブを食べた。ガイドたちはすさまじき食欲でケバブ以外にティカルという羊の肉の串焼きを平らげていた。私はレバンというイラクヨーグルトを飲み満足した。イラクのヨーグルトは日本と違って塩を混ぜて飲む。飲むヨーグルトであるが塩味が強烈だ。脂っこい食事には非常にマッチする。本日の現地メディア、特に新聞の対応はシェラトンホテル脇に打ち込まれた迫撃砲の被害者についての論説がトップを飾った。子供を失った母親の泣き狂った姿を写真として紹介し、この攻撃の背景を考察していた。日本の北朝鮮のジェンキンスさんの情報がこちらではまったく紹介されていないことに驚いた。距離が離れているとはいえこうも世論をにぎわす情報が違うものかと驚いた。イラク人にジェンキンスさんを知っていますか、ときいても誰も知らなかった。イラク駐留米軍の司令官ですかという答えが何度かあった。私も驚いた。





2004年7月12日

イラクにある銀行の取材に入った。イラク暫定当局によって開設された。銀行業務は完全に起動していた。銀行の入口にはプライベートバンク関係者や中小企業の商人の方が殺到し100ドル札の束を手渡しで取り扱っていた。銀行の職員はほとんどが女性であった。業務窓口やお金のカウントや社長秘書と若い大学での女性が激しく動いていた。日本の参院選挙結果がバグダッドのBBCアラビアで報道されていた。日本の政党がいかなるものかまったく知らないのであるが、ともかく政権を担っている自民党が敗北したらしいということは知っていた。朝昼晩とニュースをチェックしている。
取材中は街中にあるインターネットカフェで確認している。どこのインターネットも大盛況で若者から家族連れまでチャットからIP電話とフル活動している。電話をしながら泣いている女性が多かった。外国に避難している親類の声を聞き、喜びと悲しみの涙が両方頬を伝っていた。若いイラク人男性に話を伺った。もとイラク外務省に勤めていた彼は現在イラクセキュリティー会社の社員として生活していた。驚いたのは数ヶ国語を自由に使いこなす語学の技術を持っていたことであった。アラビア語はもちろん、英語、タイ語、フランス語、そして片言の日本語まで披露してくれた。フセイン時代にタイのバンコクに外務省職員として駐在していたといっていた。お金をためてヨーロッパで仕事をすることが夢だという。夢と希望に満ち溢れた精悍な顔立ちから実に好印象を受けた。今日も気温が48度であった。移動する車の中はサウナと変わりない熱風が吹き付けていた。





2004年7月13日

イラク取材でバグダッドに滞在している世界のジャーナリストたちとお話をする機会を持った。CNN、AP 、AFP、ADR、EUROTELEVISION、ロイター等、様々な国籍のジャーナリストがバグダッドには多数滞在している。危険と刺激にとんだ取材生活にみなどっぷりと浸かっていた。現場に出るとき、イラク人スタッフを使うこともあるが、特派員自ら現場に足を運ぶことがみなのポリシーであった。バグダッド滞在歴が長い人では1年以上がざらにいた。取材に出られないときの退屈しのぎは何をしているのか、聞いてみるとほとんどの人が映画を見ているか、一人部屋で読書をしているといっていた。母国に帰りたいという思いもあるがバグダッドの危険と裏腹な生活が好きだといっていた。みなきれいな日焼けというより泥のような顔色をしていた。ほとんどのプレスがホテル住まいを余儀なくされていた。ホテルの各部屋は宿泊しているというよりあたかも自分の部屋としてオフィスとしてやりたい放題につかっていた。壁に穴をいくつもぶち抜いてケーブルを引いたりエアコンの排気口を作ったりといずれはホテルをチェックアウトすることをまったく考えていない状態であった。部屋を壊して何ぼという感じである。危険対策も桁外れで完全武装のセキュリティがー見張りについていた。プレスが多数滞在しているホテルの料金はシングルで日本円7700円であった。スイートでも30000円しないぐらいであった。各社常駐スタッフは最低2人、多ければ4人の母国からやってきている記者の姿があった。24時間体制で母国にテープや写真を毎日電送している。なにより各事務所ともとてつもない活気が漂っているのが新鮮であった。





2004年7月14日

バグダッド時間午前9時30分、市内中心部にある暫定政府庁舎前で車に積載された爆弾が大爆発を起こした。私のホテルから車で10分ほどの距離であるが、私のホテルの窓がその衝撃できしんだ。死者は10人、死傷者は40人を越えた。ここ最近バグダッド市内は不気味な静けさに包まれていた。ちょうど昨日、その前と暫定政府が市民の銃狩りを行っていた。その過程での逮捕者は525人にのぼり、冤罪事件と思われる不当逮捕が続発していた。その反感をかい、今日の爆破事件が引き起こされたともっぱらの噂である。イラク市民が各家庭に武器を持っているのは周知の事実である。レジスタンス活動をするためというよりも自分の家族を強盗から守るために一家に一丁の拳銃をという考え方である。取材に悶々としていたジャーナリストは現地に駆けつけた。米軍が殺到し取材は混乱を極めた。午後になると町は再び静かな普段のバグダッドに戻っていた。アメリカ国籍と思われる人権活動家の女性にお話をきいた。何度もイラク国内に入り活動をしているという。初老の女性でこの灼熱地獄の中を活動していた。アメリカの統治が失敗であるとしきりに目をむいて力説していた。激情家でお話している最中にも興奮して、怒鳴り散らしていた。いろいろな方々がこの地に入り込んできているのだなと驚いた。今日の食事は朝、目玉焼きとお茶、昼はなし、夜は川から釣ってきた鯉を食べた。暑さで水とジュースをがぶ飲みしている。それでもお手洗いに行くことはほとんどないから恐ろしい。





2004年7月15日

バグダッド中心部、パレスティナホテルホテル脇で大規模なデモが行われた。フセイン裁判スタート後の最大のデモである。デモの狙いはフセイン元大統領のジェノサイドを告発するものであった。フセインの顔がプリントされたものを市民がスリッパでたたき、灯油をかけ、燃やしてしまうというイラク得意のデモが派手に行われていた。米軍の監査は入らずイラク警察が現場を見守った。現場ではカメラマンの数もさほど多いくはなかった。治安の悪さを考慮してイラク人カメラマンが現地に出向いていた。人が集まるところで一発爆破レジスタンス活動が起こるというのは定石である。昨日も暫定政府庁舎前での大爆発が起こったばかりである。イラク人要人の殺害も相次いでいる。しばらく静かであったイラク国内が動き始めている。イラク市民としてはフセインはみな嫌いであるが、暫定政権のアラウィー首相も大嫌いであるという。アメリカイコールアラウィー首相という図式が子供から大人まで浸透している。レジスタンス活動に活気が見え始めた背景には、暫定政権への不支持をあおっているといわれている。市民が求めているものは治安の回復と仕事の斡旋、定期的な収入であると宗派問わず想いが伝わってくる。イラクが混乱することを望むイラク国民はほとんどいない。激情型のイラク人も戦争は求めていない。家で安心して眠れること望んでいる。気温が上昇しっぱなしのイラク、今月からますます動きが激しくなりそうだ。





2004年7月16日

イラクでの休日は毎週金曜日である。イスラム歴にのっとっているため日本でいう土曜はこちらの月曜日にあたる。イスラム金曜礼拝がイラク各モスクで行われた。礼拝の議題はフセイン元大統領の裁判の行方と暫定政権について、アメリカ統治への不安を宗教指導者が訴えた。外国人相手のタクシー運転手の方々は各ホテルのロビーで客待ちをしているがその効果はない。今のイラク情勢のなかで外国人を相手にしたガイドや運転手が一番稼ぎがいいといわれている。一日日当は高いところで12000円、悪くても4000円は支給される。現場にもぐりこむ仕事ゆえに危険を伴うがイラク市民にとってこの収入は魅力だ。平均月収が1200円とも言われている中で、その何倍もの収入を一日で稼ぐ。誰しもがガイドやドライバーとして働きがっている。しかし様々な条件がある。英語を話せること、ジャーナリストのガイドとしての経験を持っていること、情報収集に長けていること、危険な場所にもいけることなど、かなりシビアな審査がある。メディア側もボランティアで活動しているわけでないので仕事ができないと思ったらその日限りで首にする。激しきビジネス交渉が日々行われている。イラク人ガイドが命を落とす事件が多数おきている。前線へ前線へと駆り立ててしまう傾向が危険だ。





2004年7月17日

イラク取材で撮り続けてきた映像の翻訳作業をした。アラビア語は挨拶程度しかわからずガイドとの英語のやり取りしかコミュニケーションをとる方法はない。ガイドと共に片っ端から映像の翻訳作業をしたのであるが骨が折れる。現場で取材しているほうがまだ肉体的疲労と満足感でその日はぐっすり休めるのであるが、翻訳編集作業はデスクワークであり部屋に閉じこもり悶々とした圧力がある。今日のバグダッドはすさまじき晴れ、気温48度、バグダッド郊外とバグダッド市内での自動車レジスタンス爆破テロがあった。新聞社の方にご挨拶に伺った。明日からバグダッド郊外で米軍との通称EMBEDといわれる従軍取材がスタートする。タージというエリアであり米軍攻撃が非常に激しき場所だ。数日間の申請ウェイトをこなしてのゴーサインとなった。米軍と寝食を共にして前線のパトロール取材にも同行する。カメラマンにとっては冥利に尽きる取材である。危険が伴うゆえに防弾チョッキやヘルメットは持参しなければならない。米軍が何を想い、喜び、悲しんでいるのか、徹底的にその本質を引っ張りたい。一応万が一のためにバグダッドに駐在する特派員の新聞社の方々には出発する主旨と行程を報告した。バグダッドの外での取材となるためやられる可能性が非常に高くなる。緊急事態を考慮してそして新聞社にかたに非常事態のときに情報錯そうを防いでもらうためご挨拶した。毎日が興奮の連続だ。





2004年7月18日 米軍従軍リポート@



米軍従軍取材がスタートした。バグダッド郊外にあるタージでの従軍となる。ベースキャンプ地はキャンプクック、10000人が駐留する巨大キャンプだ。朝からのバグダッド市内のパトロールに密着した。カメラマンとしてハンビ(米軍攻撃型ジープ)に乗り込みキャプテン筆頭に第39師団に張り付いた。バグダッドでいつも米軍取材にてこずっていたゆえに、こうして米軍と共に行動していることが信じられない。撮影もほとんどお咎め無しであった。キャプテンを頭に3台のハンビでのパトロールである。兵士の数はそれぞれのハンビに4人合計12人の行動となる。街中を縦横無尽に走り回った。渋滞もお構い無しに突っ込み、縁石も乗り上げながら走行した。イラク市民のこちらを見る視線が冷たかった。そして攻撃されるのではという緊迫感が走行中いつもびしびしと感じられた。防弾ヘルメット、防弾チョッキをパトロール中は羽織っている。米軍密着の取材だけでこれほど危険緊迫感を感じるものとは思わなかった。あたかも狙ってくれといっているような雰囲気であった。ベースキャンプ地に夕方戻った。汗だくだ。防弾チョッキの下は塩を吹いていた。カメラは砂塵で変色している。夕食はベースキャンプ地内にある食堂でキャプテンたちと食した。すべて食べ放題式なのだが料理がすごい。西洋料理からインド料理からイラク料理からチャイニーズから選びたい放題、食べ放題である。私はロブスターとラザニアを食した。バタースコッチアイスクリームも食べた。イラクでのこれほどの贅沢料理は初めてだ。部屋に案内された。EMBED(寝食共にする米軍取材)というだけあり雑魚寝部屋かと思っていたらシングルルームでエアコンつき、ベッド、シャワー、喫煙エリア、便所ときれいに磨き上げられていた。バグダッドのホテルより快適だ。この従軍取材は危険であるが病み付きになりそうである。明日は早朝からパトロールとなる。





2004年7月19日 米軍従軍リポートA

米軍取材が続く。朝6時に起床し、まずキャプテンと今日のパトロール内容の報告と注意事項を受ける。朝食をとる。スクランブルエッグ、ベーコン、ポークソーセージ、ハッシュドポテト、チョコレートミルク750mlである。朝からビュッフェで兵士たちは食べすぎといえるほどジャンクフードを食す。午前中はキャンプ地内の取材を行った。キャンプクックの広報担当官と話した。私の取材プログラムはすべて受けてくれるといった。米軍側に入るとジャーナリストであっても同じ仲間として恐ろしく気を使ってくれる。街中での命がけの米軍取材とは大きくかけ離れていた。キャンプ地内にはPXストアというミリタリースーパーが存在する。かつてのナシリアでの米軍キャンプ地でもやはりこのPXストアが兵士の憩いのショッピングとなっていた。店内には米国本土と同じ商品が並べられ、価格も同じであった。ミリタリーグッズからお菓子からDVDから洋服、電化製品まですべてが手に入る。酒類はノンアルコールビールを売っていた。巨大ポテトチップ一袋100円、陸軍仕様軍用シューズ9900円、CD1000円、コカコーラ350ml、70円、チョコレートクッキーファミリーサイズ200円であった。日本よりわずかに安かった。兵士用食堂を取材した。昨日も驚いたがバリエーションといいボリュームといい無制限である。大柄な兵士は一度の食事で巨大サンドイッチ、タコス、フライドチキン、マッシュポテト、トマトチキンソテー、サラダバー、ドリンクバー、アイスクリームバーを平らげていた。食堂のテレビではアメリカン大リーグが中継されていた。昼からはINGと呼ばれるイラク保安警察の訓練に密着。基地内でのトレーニングのあと、タージの村々での実践のパトロールが行われた。気温が50度、防弾チョッキ、ヘルメット、水筒、通信電話などのオプションをあわせると30kgほどになる。何時間も灼熱のなか村々の隅々までパトロールした。レジスタンス活動にぶつかることはなかったが、とてつもない緊迫感でみな壁に寄り添うように行軍した。イラク兵士と米軍が共に訓練し、共に実践でパトロールしていたことが新鮮であった。毎日こうしたパトロールが行われていた。日が沈みキャンプに帰還した。みなで夕食をとった。マッシュポテト、マカロニサラダ、ビーフチーズハンバーガーを食した。夜は宿舎で写真を整理した。トレーラーハウス、PODNo7の自分のコンテナルームは約6畳間、床は砂塵が積もっていた。トビラの外は喫煙エリアとなっており夜間パトロールがない兵士たちとタバコをふかしながら冗談を言い合った。自分が従軍している第39師団はアメリカ南部アーカンソー州からの兵士たちであった。兵士たちは女性の話ばかりしていた。家族から兵士に送られてくる差し入れの荷物をみなで面白おかしく開封して、笑いあった。イラク人と一緒で米軍兵士も家族愛と郷愁の念に満ち溢れていた。




2004年 7月 20日 米軍従軍リポートB

午前5時30分起床、朝食を食べる。ハッシュドポテト、スクランブルエッグ、バナナシェイクを食した。午前7時から米軍第39師団のバグダッドパトロールについた。完全武装のハンビ(HIGH−MOVILITY−MULTI−VEICHLE,通称HUMVEE)の後部座席に乗り込みカメラを構えた。バグダッドまではハンビ3台の12人チーム。バグダッドに入ってから他の師団と合流して合計8台ほどの大部隊となった。バグダッドではパトロール以外にアブノアエリアの公園建築が米軍によって行われている。その土木作業を米軍兵士が行っていた。イラク人も土木作業員として何十人と雇われていた。午後まで作業が続き、再びパトロール、バグダッドから国道1号線を北上した。今朝早朝午前4時30分に自分の宿営地であるタージキャンプにモートンとよばれる迫撃砲が打ち込まれた、爆音で目がさめた。パトロールから帰って夜7時過ぎ、キャンプ地内で爆音が6発連続で響き渡った。
タージがスンニトライアングルのど真ん中に位置していることを思い知らされた。兵士たちは平然と業務をこなししていた。無事怪我なく一日が終わった。夕食はラビオリとフライドポテトとカカオシェイクを1リットル飲んだ。ほかの兵士たちはノンアルコールビールを飲んでいた。帰国したらシャンパンとレッドワインを飲み明かすと兵士たちは語っていた。夜はまた自分の部屋の前の喫煙エリアに集まりタバコをふかしながら兵士たちと時間を過ごした。インタビューをするときと違って兵士も夜のリラックス時間として本音をずけずけと言うところがおもしろい。イラク情勢についても語った。ほとんどの兵士がいずれはイラクに平和は来ると思っているが、時間はとてつもなく長いだろうといっていた。フリーダムをイラクに与えているとは思わないといっていた。女性兵士はタバコをモクモクとふかしながら、だんなさんの写真を見せていろいろその背景を語ってくれた。笑いにとんだ夜をすごした。コンテナルームは壁が筒抜けで隣の部屋の音楽ががんがんに聞こえてくる。ほとんどの兵士がハードロックを聞いていた。シャワーにはいると兵士たちのほとんどが全身にタトゥーを入れまくっていることに驚いた。便所もシャワールームも清潔で気持ちがいい。ベースキャンプ内の清掃担当はフィリピンの人たちがやっていた。食堂もフィリピンの方とパキスタンの人が多かった。





2004年7月21日 米軍従軍リポートC

キャンプクックベースキャンプ地で生活する米軍兵士の生活を追った。米軍兵士みなコンテナハウスの一部屋に良くて一人部屋、悪くても2人部屋に住んでいた。小型エアーコンディションありでベッドもある。一人の男性兵士の部屋にお邪魔した。米軍キャンプ地で6ヵ月住んでいる男性の部屋はまさに独身男性の部屋真っ盛りであった。壁には女性のヌード写真がでかでかと飾られ、アメリカポップアイドルのポスターが所狭しと貼り付けてある。その脇にはM−16の銃が横たわりいくつものマガジンが無造作に置かれている。ベッドは脱ぎっぱなしのシャツやズボンが放置してあり、明らかにその上で寝ているといわんばかりに衣類はぺしゃんこになっていた。実際この男性は結婚していてアメリカ本土オハイオの家では妻が清潔な部屋をつくろってくれているといっていた。子供もいる。全身にタトゥーを入れまくりであった。日が沈むとご近所のコンテナルームでくすぶっている兵士たちが集まってきて、ギターを弾きながらカントリーミュージックを奏でていた。みなアーカンソーやオハイオ、そしてバッファローニューヨーク出身者ばかりであった。みなからだが大柄で、大声でしゃべり、笑い、冗談を言い合っていた。イラクにありながら完全に地元の雰囲気で生活していた。みなタバコや葉巻をふかしていた。灰皿は使用後の122mm砲弾を使っていた。教会関係者がキャンプ内で夜間ミサを行っていたがひとっこ一人参加していなかった。教会のパイプオルガンの録音テープを流していたが周りの兵士からうるさいとひんしゅくをかっていた。20分ほどで撤収させられた。みなあまりにも親切で感動した。部屋で写真編集などをしていると決まって夜8時ごろトビラをノックして兵士の溜まり場に連れて行ってくれた。酒のないパーティーでみなファンタやコーラを飲みながら女性の話や仮に帰国できたら最初に飲む酒はワインだビールだと熱く語っていた。パトロール中に見せる死との狭間の表情とは大きくかけ離れていた。アメリカ南部出身者は軍帽を脱ぎ、ウエスタンハットを被りながら葉巻をふかしている人が多かった。マルボロのコマーシャル通りであった。夜11時には部屋に戻りしっかりと睡眠をとった。





2004年7月22日 米軍従軍リポートD

朝からブラックホークヘリでの取材となった。朝食を6時30分にとった。ハッシュドポテトとチョコレートミルクとドリトスチップスを食べた。ヘリコプターでの取材は今回が初めてであったゆえ、機材も装備も万全で挑んだ。映画ブラックホークダウンのまさにブラックホークがここイラクでも現役活躍中であった。パイロット以外には12人乗れた。タージキャンプからバグダッド市内のベースキャンプ地への移動とパトロールをかねていた。フライト中はブラックホークダウンされないか、緊張していた。ものすごい低空飛行でRPG7ランチャーで狙われればおしまいである。イラク取材ではいつも地上からアパッチやブラックホークを撮影していた。その折にカメラが砲撃に見えて攻撃されるのではといつも怯えていた。実際にヘリから地上を見ると地上の人が何を持っているかまったく識別できなかった。スピードが速すぎて人や家をじっくり見ることや狙うことはほとんど不可能であった。
そしてヘリのプロペラの音がうるさすぎて音を拾うことも会話をすることもできなかった。耳がおかしくなった。
地上のハンビの攻撃型ジープとは違ったパトロールの危険と醍醐味を取材することができた。ブラックホーク取材の後はハンビでのバグダッドパトロールを行った。大所帯でハンビ5台、大型トラックの輸送車3台のでのバグダッド入りとなった。途中ちょっとしたエンジントラブルで国道沿いでの足止めを食らった以外は特に問題はなかった。相変わらず渋滞をぶち抜いていく米軍の運転には恐怖を感じた。イラク市民の目が冷たくそして恐ろしさを感じた。いくつかのバグダッドベースキャンプ地を回りハンビ車列が自分をホテルまでエスコートしてくれた。一部の米軍兵士はハンビに乗車中、日本にまだ忍者というものはいるのかと真剣に質問してきた。カルチャーギャップの激しさを感じた。日本には忍者はもう一人もいないと釘をさしておいた。みな映画を見すぎているらしかった。





2004年7月23日

米軍取材が終了してホッとした一日であった。約1ヵ月間お世話になったガイドや運転手、情報提供者の人たちとお別れの晩餐をした。日本人、イラク人関係なく1ヵ月寝食をともにし危険に直面する時間をすごしてくると国境を越えて熱い信頼関係が出来上がる。みなで今回の取材の反省も行った。良かった部分と不足していた部分を言い合った。イラク取材では情報が命であるという結論にいたりみなで納得した。みなイラク人であるゆえ酒を飲み交わすという代わりに、ミリンダというオレンジ炭酸ジュースで祝杯をあげた。食事は最後ということでバグダッド市内にあるシリア料理レストランに出向いた。ダマスカスクージーというチャーハンのようなものに煮込んだラム肉を載せたものを食べた。食事をするまでは自分の部屋で取材してきたテープのすべての翻訳作業をガイドと終わらせた。取材中に簡単なメモは取っているのであるが、実際にインタビューコメントの中で重要なことを言っていることが多い。日本で翻訳すると時間とコストがかかって仕方がないのでイラクですべて終わらせておくに限る。イラク人ガイドたちも椅子に長時間座っての翻訳作業に飽き飽きしていた。バグダッド取材に再び戻ることは間違いないゆえに取材機材をガイドの家に預けた。米軍取材用の防弾チョッキやヘルメットもすべて念書をつけて預かってもらった。ガイドたちは私が帰国するとみな失業という現実に直面する。今回支払ったガイド代で外国に出向いてみるという輩もいた。続々とイラクからジャーナリストが帰国している。イラクのストレートニュースのインパクトが世界共通であまり消費されないらしい。私のホテルもたくさんいたジャーナリストたちが姿を消し、みなキプロスやエジプトにヴァケーションに出向いていた。イラクを離れるのはさびしいものがあるがなぜかうれしいという思いも錯綜している。