2004年5月


渡部陽一イラク「取材前」日記

2004年5月9日

新聞各紙をチェックする。日曜版はニュースソースよりも読書や趣味の欄が紙面を取っているので雑誌を読んでいるような感じだ。インターネットでニュースチェックよりも新聞紙面を読むほうが頭に浸透する。紙面の感触や香りの独特さがなんともいえない。イラクにいるときの新聞チェックはアラビア語ゆえに自分ですべてに目を通すことができない。それゆえにガイドと共に一日に発刊されているすべての新聞を買占め、複数のイラク人と共に必要なニュースだけをピックアップしている。日本に新聞とイラクの新聞の一番の違いは国際記事の扱う量であると感じている。日本では国際面は2ページであるがイラクではその倍は紙面を割く。それゆえに市民は国際事情にとてもくわしい。生活に密着している情報ということだ。





2004年5月10日

イラク取材を終えて各局、雑誌社、新聞社、ラジオ局に帰国報告のご挨拶に出向いた。いまだ日本人人質拘束のニュースが騒がしい。拘束され解放されたことは何よりすばらしきことであるが、日本に帰国してそれ以上の戦いを余儀なくさせられるのは地獄であろう。
夜友人のうちへお邪魔した。イラクのお話や日本のニュースの話をした。夜のニュースをみながら食事した。家に戻りイラク取材で取った写真や映像のファイルに目を通した。まだ気持ちがイラクにある。いつ次は現場に戻れるのだろうと想像していた。





2004年5月11日

新聞社の方に面会した。イラクの報告をした。日本でのイラク報道の状況を教えていただいた。イラク国内にいるときと大きなギャップがあることを痛感した。新聞各社ぎりぎりまで滞在して取材をされていた。バグダッド市内の状態が著しく悪化していたゆえになかなか取材に出られないといっていた。現場は映像も写真も記者もいかに誰よりも早くその現場にたどり着くか、競争であった。多忙を極めるがなんともいえない恍惚感があった。
日本に帰国してその刺激が減退してきている。そしてイラクに戻ることばかりを考え始めている。日本も好きだがイラクも好きだ。



2004年5月12日

新聞社の取材を受ける。バグダッドでの現場の様子や取材体制について質問を受けた。新聞社の記者の方も全国取材のために駆けずり回っている。外国にいるときも日本にいるときも新聞社の方の動きのスピーディーさには頭が下がる。一日で取材をしてインタビューをとり検証し記事にするという流れを掛け持ちで毎日消化していくことは並大抵のことではないであろう。バグダッドに来られている記者の方も若い方がほとんどで精力的に動かれていた。バグダッド管轄記者はほとんどがヨーロッパかアフリカ支局から来られていた。
3週間ほど滞在して次の特派員の方に交代であった。忙しく世界を飛び回られていた。激しき仕事だ。





2004年5月13日

編集部の方と会食した。原稿やイラク取材報告を提出した。編集部側がイラク取材でほしいものを伺いリストとしてまとめた。自分で求める写真と編集部側のほしいものはやはり大きなギャップがある。この壁を埋める必要もないが、それぞれの取材をこなしていくことが大事であると感じた。編集部側のお話を実にウイットに富んでいてイラク国内でこのようなものの見方があるものかと勉強になり、そして感心していた。夜横浜に戻り。友人と落ち合った。職種はまったく違うが仕事上での苦しみや大変さを聞かせていただき、みな地獄のように仕事をしているのだと納得してしまった。ご家族を持っているゆえにすさまじきハングリー精神をもっていた。実に刺激になる夜であった。家に戻り一日の流れをふりかえり、床に入った。ぐっすり眠れた。夢も見なかった。





2004年 5月 14日

出版社の方に写真を持ち込んだ。毎日、むやみやたらと写真営業活動をかけている。編集部の方も面会してくれて、お話を聞いてくれる。さすが情報に敏感でイラク情勢についてもよくご存知の方が多い。やはり直接ご挨拶できることが一番である。こちら側も万全の体制で情報を持ち込む。イラクの現場にいるときとはまた一味違った仕事として刺激がある。イラクで写真をとり日本で発表する、このスタンスがよりグローバルになればよりカメラマンとして力量があがるというものだろう。国境を越えたカメラマンが理想だ。





2004年 5月 15日

編集部の方に原稿をわたした。ひとつ仕事がクリアしてホッとした。夕方から学生時代の友人と再会した。8人ほど参加した。学生時代の思い出話にひたった。みな変わっていなかった。仕事もバリバリこなしていた。それにしても年月が過ぎるのは実に早いものであると衝撃をうけた。学生時代は仲間と自宅や外でこじんまりしたパーティーをよくやっていた。お酒もむちゃくちゃな呑み方をしていた。お酒に酔っ払うことを当時まだ良く知らなくて強いお酒や種類別々のアルコールをがぶがぶ飲んでいた。久しぶりの仲間との会は実にシックで粋なものであった。みな静かに、ちびりちびりと飲んでいた。みな落ち着いていた。見習わなければと感じ入った。





2004年 5月 16日

ヨコハマ中華街に久しぶりに出向いた。友人たちと車で出陣した。横浜に住んでいながら中華街に行くことはほとんどない。いつでもいけるという心理が足を遠ざけている。中華街の路地裏にある食堂に入った。実に雰囲気があり食事もおいしかった。買い物はしないのであるがウインドショッピングも楽しんだ。世界の雑貨が多数売られていた。日本のようなアジアの一角のような風情に浸った。中華街から赤レンガ倉庫にも出陣した。
おしゃれな町並みとおしゃれなカップルたちで溢れかえっていた。横浜は実はファッショナブルで楽しい場所なのだと観光気分を味わえた。自転車で街をうろつくことも楽しいが車の移動は実に便利である。今度は徒歩で石川町方面に出向いてみたい。





2004年 5月 17日

午前中から編集部に挨拶に出向いた。写真を持ち込みプレゼンした。イラク情勢と取材内容を報告した。まだまだイラクのニュースがヘッドラインニュースとして必要なネタであると確認した。別の出版社でもやはり同じ意見が多数出てきた。夕方に家に戻り写真を再度検討した。必要な写真と不足しているカットをリストアップし次期取材でカバーする。次にイラク取材までのプログラムを作った。6月に出陣できればという思いが強い。主権移譲が大きな目玉となるが、生活の隠れたストーリーをうまく組み合わせていければと考えている。イラクのことを考えると興奮してしまい眠れなくなってしまう。床に入り悶々とした時間を消費してしまった。





2004年 5月 18日

イラク取材でお世話になったカメラマンの人たちとイラク取材終了祝賀会を開いた。みな2ヶ月ほどイラクに滞在し、バグダッドやサマワ、カルバラ取材に走り回っていた。日本で出会うのは初めてで帰国してまだ間もないのであるが非常に懐かしさに溢れた会であった。議題は自然とイラク情勢についてであった。現地にいるときに感じていたことと日本に帰ってからの気持ちの変化やギャップを聞かせていただいた。カメラマンチームの方々が良く足を運ばれる飲み屋におじゃました。なぜかうじゃうじゃとカメラマンが集まってくる飲み屋であった。写真のジャンルも別々であった。それゆえにお話が面白かった。今夜は実にホットな夜であった。





2004年 5月19日

ディレクターに方やカメラマン、編集の方と食事をした。東京、恵比寿の実に怪しきお店であった。様々なジャンルの大変さと魅力を感じ取ることができた。参加された方々はみな経験豊富でアドバイスをいくつもいただいた。初対面の方々がほとんどであったがみなざっくばらんに迎えてくれてうれしかった。夜ヨコハマに戻り自宅でニュースチェックと写真の選別作業を行った。一日の流れが速かった。ぐっすり眠った。寝る前に本を読んだ。15ページで寝てしまったのであるが、レ・ミゼラブルであった。ジャンバルジャンの生活に自分を投影していた。





2004年 5月 20日

出版でお世話になっている方にご挨拶と写真持参のプレゼンを行った。イラク情勢についてである。一枚一枚の写真を説明している中で取材中のドラマが思い起こされて興奮してしまった。日本のイラク報道と現地の報道の違いをお話した。何かと新聞のイラク報道が浅はかであると指摘されがちであるが、現地の新聞記者の人たちの取材は縦横無尽であった。決して他国の記者にも負けていないと感じた。実にアグレッシブでスピードに飛んでいて見ているこちらがいつも刺激を受けていた。やはりイラクだけでなくどの国でも言葉の壁が最終的に大きくのしかかってくると感じている。会話のニュアンスも日本とあまりにもかけはなれているので、この壁をぶち破ることはたやすいことではない。記者の方もカメラマンも世界史の動く瞬間にその現場に入れることほど幸せなことはないと感じている。





2004年 5月 21日

テレビ局の方と打ち合わせをした。イラク報道についていかなる報道の仕方が残されているのか、検討した。取材よりも安全を優先させることが絶対条件であると確認した。取材現場が緊迫してくるとカメラマンはディレクターの指示が耳に入らなくなり、勇猛果敢に前線に突進していく特徴がある。それゆえによきカットが取れることもあるのだが、その反面命を落としてしまうこともある。日本人殺害事件から取材体制を見直す風潮がたかまり、安全対策のシュミレーションがあちらこちらで開かれつつある。もし私も参加できるのであれば是非訓練を受けてみたい。イラクに駐留している米軍兵士はいかなる訓練を受けているのか。





2004年 5月 22日

今日の土曜日は映画の一日にした。編集者とのスケジュールもなく一日目標映画本数10本を自分に言いつけた。印象に残った映画は無能の人という映画であった。妙に悲しく笑える映画であった。座頭市も刺激に飛んでいた。実に楽しめた。一本2時間を10本となるとただでさえ20時間、6本ほど見てかなりの覚悟が必要だと力尽きてきた。ジャンル別々、国別とわず、見たいと思ったものを勝手にチョイスしてディスプレイの前にテープを積み上げていた。一本見るたびに映画の感想を書き記していた。映画好きであるが結局8本で諦めた。意識が朦朧としてきて集中力がなくなった。ニュースチェックを合間に行ったがぜんぜん頭に入ってこなかった。10本を一日で見終えることは並大抵のことではないとよくわかった。再度チャレンジしてみよう。





2004年 5月23日

家に引きこもり映画を6本見ることに決めていた。昨日から借りておいた国籍ばらばらの映画を朝から通しで見続けた。6本の中で特に印象に残ったのはマグダレンの祈りというアイルランド映画であった。女性孤児院の話で実に暗いストーリーであった。悲劇がここに凝縮されている映画であった。映画の主人公になりきって画面にくらいついていた。もう一本印象深い映画はブラックホークダウンというソマリア内戦の映画である。かつてソマリア取材に出向いていたこともあり興味深く見たのであるが、あまりにもソマリアの市民が野蛮に描かれていて驚いた。やはりアメリカ軍側から見るとこの映画のように野蛮国家ソマリアと見えるのかと衝撃であった。現場は決してそんなことはない。義理と人情と規則ただしい生活を送る市民で溢れている。映画はやはりフィクションである。しかし映画としては面白かった。





2004年5月 24日

昼から出版社を二つ回った。日本人拘束に関する質問や現地報道のあり方などを質問された。自分が捕まっていたらどうしていたか、そうしたシュミレーションも議題にあがった。日本人拘束事件がいかに国内に衝撃を与えていたのか、あらためて実感した。夜に友人とであった。半年ぶりの再会だ。イラクでは現地ガイドと侵食を共にしているので日本の友人が懐かしくなる。特に日本語で会話できることが幸せだ。現場で長期間滞在されている特派員の方々は本当に大変であると思う。4年や5年の中東生活をこなして日本に変えるとカルチャーショックを受けるという。日本で何が起こっているのかまったくわからないという。フリーにとって良いところはまだ日本に帰ることが許されていることにあるといえよう。
現地化してしまった日本人を何人も目撃した。振る舞いや考え方が完全に日本人をかけ離れてしまい、エジプト人やトルコ人になっていた。驚くことばかりである。





2004年 5月25日

ラボに提出していた写真を受け取った。イラクの写真である。最近はフィルムを使うことがめっきり少なくなり、8割はデジタル写真となっている。デジタルの便利さは使えば使うほど体に染み渡り、フィルムを使えなくなってしまう。もちろんフィルム撮影をこよなく愛するのであるが、イラクなどのその日の写真の価値を問う場所にいると、現像して納品では時事ニュースについていけない状態だ。現場のカメラマンはほとんどがデジタル化にシフトしている。下手をするとドンパチ銃撃している最中にその場から写真を送るということも十分可能であり、実際にみなそうしている。現地で使っているカメラはキャノン派とニコン派二手に分かれている。私はキャノンを使っている。デジタルは暑さや衝撃に弱いという弱点があるが、それをカバーできるだけのスピード性とクオリティーをもっている。イラクではカメラを壊して何ぼという危険な風潮がカメラマンの間にある。みな使い方がすさまじくハードでよくカメラがこの衝撃に耐え切っているなと驚くことばかりである。現場ではカメラ最低4台は準備している。





2004年 5月 26日

イラク取材の原稿と写真キャプションを提出した。昨日からほぼ徹夜の作業であった。数日前から定期的に仕事をこなしていればよいのであるが、なかなかできないのが現実だ。原稿がきが入ると時間のあるうちから勝手に余裕を持ってしまう悪い癖があらわれる。頭の片隅にやらなければやらなければと思いながらも、つい時間を無駄にしてしまう。締め切り間じかになってあわてて睡眠を削ってペンをとり、苦悩し続ける。一向にその現実に変化がなくデッドラインで慌てふためく。イラクの現場にいて取材や原稿がきに追われる激しい一日の時間のながれにあるほうが意外と期限前に原稿が上がっていたりする。逆に日本にいるときはだらけてしまう習性がある。時間に追われているほうが物事がスムーズに進行する不思議な現象だ。





2004年 5月 27日

東京に出た。歓送迎会である。お世話になっていた方が去り、新たに心強い先輩が参加される。先輩方の経験から来る知識というものにいつも助けられている。やはり勉強だけでなく実際に体験されたことからでてくる意見というものは説得力が強烈だ。もし自分が先輩の立場であったらどのような意見を次に続く人たちに伝授できるのか、まったく想像がつかない。久しぶりにラーメンを食べた。実においしいラーメンで衝撃を受けた。ここ最近、ラーメンから遠ざかり、パスタばかり食べていた。お腹がすくと体がパスタを求めていた。そんな中でのラーメンは新鮮で、再びラーメンの快楽にはまってしまいそうだ。夜ヨコハマにイしっかり戻り、自宅で再びニュースをチェックして写真整理をして就寝した。帰りの電車がラッシュで日本の通勤体制の厳しさを感じた。東京は人があまりに多すぎる。そして刺激に富みすぎている。





2004年 5月 28日

イラクで日本人ジャーナリストが殺害されたというニュースが飛び込んできた。第一報を聞いたとき、いったい誰がやられたのか想像できなかった。あまりにもたくさんの日本人がイラク国内に滞在されているゆえに誰がやられてもおかしくはない状況ができていた。
橋田さん、小川さんがなくなられたと知った。バグダッド取材で何度かご一緒させていただいていたゆえに衝撃と戦慄がはしった。バグダッド南方のマフムディアで事件に遭遇したらしい。サマワからバグダッドへの北上中の最中の事件であるという。百戦錬磨の橋田さんが殺害されるなど信じることができなかった。小川さんも常にはしださんと行動を共にされておられたので橋田さんの危険察知の感覚で事件回避できていると思い込んでいた。
日本国内でも事件のニュースが一面をおおった。それにしても信じられない。安全対策も万全を期していたはずである。ベトナム戦争から戦火をかいくぐられてきた橋田さんが命を落とすことなど、ニュースの現場の検証を見ても疑わざるえなかった。イラク取材の現実を恐怖と共に感じ取った。





2004年 5月 29日

橋田さんの事件の続報が次々と入ってくる。サマワから北上する車は黒のGMCという4輪駆動車を使っていたこと、マフムディア通過時間が午後4時過ぎであったこと、マフムディアで結婚式の取材をしようとカメラを持ち外に出たこと、米軍の検問所で姿を市民にさらしたこと等、、、イラク人ガイドが一人生き残ることができたこと、現場に入ってみないとわからないことだらけであるが、まさか殺害されるとはいまだ信じられない。イラク国内では日本人限らず外国人が拉致、殺害される事件が続発していた。その中でのこの事件はあまりにもつらく、悲しい。自分のイラク取材を振り返っても危ない状況が多々あった。運良く日本に戻ることができていること、まさに運が良かったに過ぎない。橋田さんの事件がイラク取材そのものを大きく変えていかれることになると思う。遺族、友人の方々の悲しみを思うといたたまれない。





2004年 5月 30日

引越しの手伝いに出向いた。部屋の中から家具や衣類を運び出した。引越し業務はまさに肉体労働の王道だ。普段使い慣れていない筋肉が悲鳴を上げる。部屋があっという間にきれいになる喜びも捨てがたいものだ。引越し屋さんがこの不景気の中でも業績アップしている背景にはきつい肉体労働からの解放をみな求めているからであろう。一人暮らしの引越しならばまだしも家族や事務所の引越しとなると腰砕けになることが目に見えている。体を動かし汗をしたたらせ、引越し業務完了はまさに労働の賛歌を感じる瞬間であった。私も自宅の引越しがあるときは自らの手で労働の賛歌を感じ取りたい。





2004年 5月 31日

昨日、ご近所の方がなくなられお通夜にいかせていただいた。子供のころからお世話になっていた方ゆえに悲しみと混乱にのみ込まれた。戦場で人が亡くなる姿を何度も見てきた。それでも身内ともいえる方の亡骸に対面することはつらかった。人が亡くなることは本当にあっけないものであると強く感じる。今日の朝まで元気な姿を見せていた方が突然に他界される、その突発性に戦慄をおぼえる。自分が命を落とすときもそうであろう。生きている喜びを感じる瞬間もあれば、怠惰な瞬間もある。人生、まさにああ、無情である。