1月13日〜


渡部陽一イラク日記1月13〜2月8日
1月13日  
イラクに出発する。空港でいきなりオーバーウエイトの別途を徴収されへこんでしまった。新年を迎えての最初のイラク取材ということで何とか無事に取材を満足するもので帰国できますように祈っていた。イラクには今回で9回目の入国となる。何度いっても驚きと発見ばかりですっかり癖になってしまっている。それでも出発前は一睡もすることができない。いつものことだが自分の部屋で荷物をパッケージしているときあまりに興奮し、さらに戻ってこれないのではないかという恐怖感で朝を迎えバスで成田に入る。今回もまったく同じであった。空港のマクドナルドでテリヤキバーガーを食べた。そしてフライトであった。



1月 14日  
トルコ経由でアンマンに向かう。向かうといってもトルコ、イスタンブールでのトランジットに48時間も費やすことになっていた。イラク取材前にイスタンブールで時間を費やすことになることはつらかった。いかに早くイラクサマワに入って自衛他の取材の情報収集をこなしたい。そう思っているもあせってもしょうがないと開き直りイスタンブールで旅行がてら、おいしい食事や、お酒を楽しみもうと勝手な時間をすごすことに決めた。あおられ、時間に追われる取材が好きだ。イスタンブールにある新市街にあるアイリッシュバーで黒ビールをのみながらあせらずゆっくり行こうと一人納得していた。





1月15日 
イスタンブールからアンマンに入る。昨日はスルタンアフメットホテルというイスタンブールの旧市街にあるホテルに泊まったが一泊20ドル、スタッフはソフト、非常にゆったりできた。朝食もおいしく、オリーブを胃の中にたらふく詰め込んだ。アンマンではいつもの常宿クリフホテルにチェックイン。チェックインというのも大げさだが一泊5ドルほどの安宿だ。そして快適な宿だ。ジャーナリストにとっても旅行者にとっても情報豊富で様々な話を楽しめ、街のど真ん中という立地条件、お勧めの宿だ。夜中の3時にバグダッド行きのタクシーに乗り込み国境に向かった。またイラク取材に来ることができたとうれしくて仕方なかった。



1月16日 
昼2時にバグダッドに入った。タクシー移動中に強盗団に今回こそ襲われるのではと怯えていたが無事であった。非常にたくさんの車や人がかつて以上に行き来していた。バグダッドではアンダルスパレスというホテルに一泊だけする。翌日早朝には自衛隊派遣予定地のサマワに向かう。このホテルはNGO、ジャーナリスト、旅行者が多数宿泊しているホテルで情報量といいスタッフの感じといい非常に好感を持てるホテルである。食事はフォトジャーナリストの方とともにする。アルファナールホテルの2階にあるレストランでスパゲティーボロネーズを食べた。4ドルとられた。痛かった。先輩ジャーナリストから取材に関するアドバイスをいただけたことがうれしかった。



1月17日 
午前7時に出発した、日本大使館の取材をこなしてからのサマワ入りである。バグダッドからやく350km、車で4時間の距離である。いつもチームを組むガイド、運転手とともに自衛隊先遣隊取材に入る。イラク取材での一番の出費はこのガイドや運転手に支払う費用である。一日40ドルから50ドル支払う、これが1ヶ月ともなるととてつもない金額に膨れ上がる。日本のビジネスマンよりも稼いでいるのではないのかと恐ろしくなってくる。ただ取材を成功させるためにはどうしても彼らの情報力とコネ、さらに翻訳の仕事が必要となる。そう考えたら安いほうだと自分に言い聞かせるも支払いのときは本当につらい。



1月18日 
サマワで張り込みを続ける。自衛隊先遣隊がいつ来るのかは1週間後だとか明日であるとか情報が錯綜していた。万が一先遣隊のサマワ入りをはずしてしまえばイラクにやってきた意味がなくなると恐れていた。あせってもしょうがないと思いつつ車の中で悶々とした時間をすごす。ガイドたちと冗談を言い合うもまったく面白くない。一日張り込みと街中の生活取材をこなしこの日は終わってしまった。明日が憂鬱だ。自分の取材が方法は大丈夫なのか再度考え直すきっかけとなる日であった。明日は地道に行こう。



1月19日 
情報キャッチ、自衛隊本日サマワ入り決定という情報が飛び始めている。午後4時にはサマワオランダ軍ベースキャンプ地に入ると誰しもが語る。張り込み一日で先遣隊に接触できるのであればラッキーであると昨日の憂鬱な気持ちはすっかり忘れてしまった。午後4時前にキャンプ地前で張り込みするもなかなかやってこない。結局姿を見せたときは夜の9時であった。撮影し終わったと同時に写真の転送に入る。手段はさまざま、衛星電話、インターネット、早く確実に、低コストで送信できる手段を模索していた。



1月20日 
自衛隊先遣隊イラク入りの写真がロイターとAP発で新聞の一面を飾った。私の写真はまったくはじかれた。時間が遅すぎた。昨日の午後9時の段階で即写真を送るもロイターとAPにはかなわなかった。彼らはサマワで待ち伏せしていたのではなくクウェートとイラク国境ですでに昼の段階で自衛隊の接触していた。6時間以上の差があった。世界のトップカメラマン、伝送機材のよしあしもあるが先読みする行動力に頭が下がった。一流という人たちは何枚も人の先を言っていることを強烈に教えられた。



1月21日 
自衛隊先遣隊の活動はがっちりとプログラムにの取っていた。毎朝8時にプレスリリースをこなし一日の取材陣動向ルールを伝える。初日から取材陣の激しい取材合戦が行き過ぎてしまう一幕もあったことで、先遣隊側と取材陣側で交渉し安全でルールある取材していこうとお互いの提案で同意された。初日の興奮からさめつつある21日は振る舞いを考え直す一日であった。カーチェイス並での追跡取材など絵としてはあまりいいものでない上、あまりにも危険が伴うことを誰しもが納得した。ジェントルマン取材のスタートである。



1月22日 
自衛隊先遣隊がサマワ部族長と対談した。サマワでの活動をより効果的にこなしていくためにはサマワを取り仕切る部族長からその同意を得ることにある。部族長のうちまで先遣隊が足を運び、ともに食事をして対談に入った。イラクでは大皿料理を複数の者で食べるときその一皿から食事を食したものは家族の一員であるというしきたりがある。部族長側が先遣隊を招き大皿料理を振舞ったことは最高の歓迎の意思を出してくれたものである。場の雰囲気は柔らかであった。



1月23日 
朝からサマワは嵐に見舞われていた。サマワでこれほどの嵐に遭遇したのは始めてである。日本かおまけの大嵐だ。道はぬかるみ、水浸しになっている。自衛隊の活動も一時中止となるも午後からは突然に晴れ渡る。サマワバスケットボール協会が先遣隊をサッカー大会に招待した。サッカーが国民的スポーツであるイラクにおいてサッカー観戦に招かれるとは最高の名誉だと隊員は語っていた。残念ながらサッカー場は嵐の後で水浸し、試合は延期となった。会場には市民が殺到するも先遣隊との交流で満足して散っていった。先遣隊と市民の交流はまだまだすくないものの日本という存在はっサマワ市民にがっちりと浸透していた。先遣隊もまだ緊張している観はぬぐえない。



1月24日 
サマワを早朝はなれた。バグダッドに向かう。自衛他先遣隊の取材は完了した。満足はしている。バグダッドまで戻ることがなぜかうれしい。バグダッド入りが恋しくなっていると自分で驚いた。イラク全国それぞれの都市に特徴がある。首都に人が集まるというのは仕事があることもそうであるが、人恋しくなり人の集まるところに引き寄せられていくものなのだと自分で勝手に納得していた。早朝ガイドたちと牛乳を飲みクッキーを食べた。移動中での朝食はせわしないものだが、なんだか牛乳が異常においしく感じられた。腹が減っているとおいしく感じるのもであるが、目的を果たした後のほっとした瞬間の食事というのもなぜか美味にしてくれるスパイス効果を持っている。



1月25日 
本日はイラクサマワ取材の某雑誌の締め切り日である。サマワの市民の声を整理しなおしファイルにまとめた。イラクでの取材の傍らの原稿書きが何気に時間をとられるゆえにすさまじき労力を費やす。毎日細かに原稿を書き続けていけばいいのであるがこれがなかなかできない。取材しながらも頭の片隅に原稿のことがひっかかっているのであるが日々現場をさまよっているとすっかり精神的に興奮してしまい、コンピューターに向かうのが苦しくなってくる。日記を書くこと、私にとってなかなかのチャレンジである。



1月26日 
イラクを抜けて隣国アンマンに入った。そのまま空港にむかって飛びだった。イラク取材を終えて本当はバケーションに出向きたいのだがそれも許されなかった。ヨルダンからエジプトに抜けてビーチリゾートしたい。時間がなく日本の成田で私の写真と映像を待つ人たちのためにも道草食わずに帰国する。イラク、ヨルダンと日本を昨年から頻繁に聞きしているが未だにわからないことだらけだ。特にわからないのがヨルダンの国際空港で2時間に及ぶすさまじき荷物検査を受け、飛行機が飛んでしまったこと、それが今でもトラウマとなりヨルダンの空港出国の時には4時間以上前から空港でスタンバイするようになってしまった。悲しい事件だ。



1月27日 
アエロフロートロシア国際航空を使って成田に到着。ヨルダンからモスクワトランジットを含めて23時間ほどかかった。移動の時間がもったいない。飛行機の中ではロシアの男性が酔っ払って女性に絡みついていた。お酒は魔物であると感じ入った。日本についてから写真、映像を整理、納品する。
自分の写真や映像を使ってサマワの現状を伝えられることは本当に幸せで、興奮する作業だ。イラクから帰ってくると原稿がき、写真整理、提出、映像整理と日本の忙しさ特有の分単位での行動を余儀なくされる。人とあい、お話をして、原稿を書いていく。カメラマンとして食っていくことが大変なのは重々承知しているも駆け出しカメラマンとしてできることはその日、その日のプログラムを消化していくことだけだ。



1月28日 
イラク取材を終えて日本のメディアでいかなるイラク報道がされているのかチェックした。現場で感じる状況と日本で受けるイラクのほぷどうのギャップを強く感じた。バグダッド、サマワで日々起こる爆破事件、殺人事件はその瞬間に立ち会うことは限りなく稀であり、日々の時間の流れは日本と変わらない静かで飄々としたものだ。日本に帰ってくるとイラク国内は廃墟で町中いたるところで銃撃戦が繰り広げられている錯覚を覚えてしまった。やはり現場と日本は実際に距離も遠いが情報の受ける印象もかけ離れているのだと感じざるえなかった。帰国早々再びイラク入りが決定した。うれしいことだ。自分は現場に行くことしか能がないゆえに日本にいる時間をできる限り短くする必要があるといつも感じている。



1月29日 
某テレビ局とイラク取材の打ち合わせに挑む。現場がいかなるもので自衛隊が入ってきてから、今後いかなることが起こりえるかシュミレーションを組んだ。打ち合わせが長引く。数日後にはイラクではなくタイグラビア撮影の仕事が控えている。日本と外国を頻繁に行き来できること、幸せだ。中学生のころから世界を飛び回れる仕事に付くことができればと夢見ていた。戦場カメラマンとしてフォトジャーナリストとしてイラクに限らず世界の人たちと知り合い語り合えれば私はこれ以上の幸せはない。



1月30日 
日本食を満喫した。イラク取材中にどれほど日本食が恋しかったか。イラクではケバブといわれる羊の肉のひき肉を鉄の棒にさしたつくねのようなものばかり食べていた。味は最高だが3日ほどで飽きてしまう。豆、ケバブ、お茶の繰り返しにうんざりしていた。私は日本食が一番好きだ。特に生物が好きだ。それは刺身である。外国でお目にかかることはないゆえに日本に帰国してからの最高の楽しみの一つである。刺し盛を一人で平らげてしまった。最高であった。



1月31日 
買い物に出た。普段ショッピングをすることなど無いのだが今日は次期イラク取材のためのタフなカバンを手に入れようと街をふらついた。イラクでカメラを3台担いで走り回っているとバッテリーやストロボやフィルム、テープなどを体に密着させないといたるところに機材を落としてしまう。それをカバーするためのカバンを探したのであるが見つからなかった。次も今までどうりでやってみることにした。買い物は意外と面白い。買うわけではないのであるが、新しい発見が多い。街はこれほどまでに人でごった返しているのかと驚いた。



2月1日  
一日中、写真整理に追われる。最近はフィルムよりもデジタル写真を使うことが多く、編集は楽になったものの撮影枚数の限度がないゆえに一度の取材で1万枚以上を回していることが多い。これだけの枚数になるとさすがに編集にも時間がかかる。



2月2日  
今日も懲りずに写真を整理し続ける。枚数が多すぎだ。日付、場所別に整理してあっても埒が明かない。昨晩から徹夜で作業しているものの日の出を迎えても半分が終わっただけである。昼過ぎに一度仮眠をとり、再度編集に取り掛かる。いったいいつ終わるのか。



2月3日  
9日からタイのプーケットにグラビア撮影に入るオファーをいただいた。久しぶりのイラク以外の国への取材である。鳥インフルエンザの危険がささやかれるも気はだいぶ楽である。爆破されることや強盗に襲われること、レジスタンス活動に巻き込まれることも早々ないであろう。楽しみだ。




2月4日  
イラク側と連絡を取る。私のガイドから今のイラク情勢を聞き、今回の取材プログラムを立てていく。ガイドたちは毎日インターネットカフェでイラク情勢のニュースをかき集めている。現場にも足を運んでいる。ガイドというよりジャーナリストそのものである。イラクの新聞社で実際に働いている人たちだ。彼らの力なくして私のイラク取材は成功することはない。いつも助けてもらっている。



2月5日  
エアーチケットを手配した。アエロフロートロシア航空を使ってイラク取材に出向く。空席がなかなか取れずに苦労した。ちょうどアシュラムというイスラムの巨大行事があるためにモスクワからアンマンに出向くイスラム教徒が殺到しているという。明日からはタイに出発、その一週間後にはイラク取材、その後ハワイ取材、そして再びイラク取材と続く。外国にいけるだけで幸せだ。  



2月6日  
千葉の勝浦に出向いた。温泉に入り、食事を楽しんだ。日本らしい時間をすごせた。楽しかった。風呂の後に即、寝床にもぐり眠れるのは幸せだ。
世界の至るところにも温泉が山ほどあるが日本ほど快適な環境を提供してくれる場所はない。何より日本語が通じて、やさしいサービスをチップなしで提供してくれる日本人温泉スタッフは最高だ。



2月7日  
イチゴ狩りをした。もう何年も前にイチゴ狩りをして以来である。そもそもイチゴを食べることも一年を通してほとんどない。イチゴ狩りは30分限定であった。その間に10粒ほどのイチゴを食べた。練乳をそのまま飲むのが一番おいしいと思った。イチゴ狩りだけでなく鴨川シーワールドにももぐりこんだ。
シャチのダンスショーに度肝を抜かれた。海に潜りシャチがこちらに近づいてきたらどうしようと勝手に怯えていた。



2月8日  
明日はタイの取材である。イラクとは違ったカメラ機材の準備に明け暮れる。デジタル、35ミリ、中判の3つで挑む。普段チュウバンは使い慣れていないゆえに心配である。タイ取材が約1週間、帰国してから即イラク取材に逆戻りである。外国取材で忙しいのは大歓迎である。