6月20〜26日
渡部陽一イラク「取材前」日記
2004年 6月1日
有線ラジオに出演させていただいた。議題はイラクの映画事情であった。実際にイラクの人たちがいかなる映画を見ているのか、報告した。バグダッドではサテライトチャンネルで24時間映画チャンネルを見ているうえに、VCDといわれる海賊版映画ソフトが氾濫していることを報告した。イラク人はやたらに映画に詳しいことも報告した。なぜなら仕事がないゆえに一日中部屋で電気がきているかぎり映画三昧している現実がある。日本のアニメも映画もよく知っていた。パーソナリティーの方もすさまじき映画通で聞いたこともない映画の名前が次々と出てきた。まだまだ自分は映画を観ている数が少なすぎると悲しくなった。一日最低3本は見るペースでいきたい。
2004年 6月2日
編集部にお邪魔した。イラク取材報告と次期イラク取材についてお話した。イラク情勢が混乱しているゆえに雑誌としても新聞としてもネタを現地から引っ張ってこれるに越したことはない、行くのであれば是非連絡先を確認させてほしいとオファーを受けた。現地からお世話になっている編集部の人たちに情報を提供できるのであれば私にとっても幸せである。取材するうえでのよい部分とどうしてもできない部分を報告した。昼過ぎから4社の編集部を回り自宅に戻った。編集部からのアドバイスをまとめた。そして先輩の家にお邪魔した。音楽を聴きながら雑談をした。夜12時過ぎに自転車に乗って家に再び戻りすぐ就寝した。ビール1缶を飲んでいたのでぐっすり眠ることができた。夢も見なかった。
2004年 6月3日
編集部に再びお邪魔した。各社担当の方にご挨拶した。夕方からイラク取材でお世話になった先輩カメラマンや新聞社の記者の方々、日本の週刊誌のカメラマンの人たちと食事した。イラクの取材についてや日本での取材方法について様々な角度からの意見が飛び交っていた。勉強になる。大阪からはるばるやってこられたカメラマンもいらっしゃった。新宿のカメラマンがなぜかよく集うという飲み屋でおはなしした。みな日本に帰りイラク取材が懐かしいといっていた。サマワやバグダッドでの灼熱の中での朝から晩まで事件があろうとなかろうとうろついている時間の流れが大好きであるといっていた。専属のカメラマンの人たちばかりで次期イラク取材にいつゴーサインが出るかわからないといっていた。フリーは大変だが現場にいけるだけまだ幸せであるとかみ締めた。
2004年6月4日
誕生パーティーに参加した。渋谷の創作料理屋さんでの会は非常に楽しいものであった。お話にも華が咲き、すぐ夜更けになってしまった。横浜に帰り家の近くにあるバーでビールとジンを飲んだ。今日は編集部周りがなくお世話になっている方々との魅力ある時間をすごせて幸せであった。イラク取材のことばかりが頭にこびりつき、本を読んだり、映画を見たりしても深く浸透してこない。いつ出陣になるか、現地との情報収集の兼ね合いを見てバグダッド入りをする。今日もしっかりと家に帰り床にもぐりこむことができた。夜暑くて毛布をかけることはない。部屋が汚くてうんざりする。明日は日の出前に起きて清掃活動に入ることにする。
2004年 6月5日
朝5時30分、起床、予定通り部屋の掃除をした。ごみを片っ端から袋に詰めた。くしゃみが止まらぬほど埃がまっている。掃除を終えて再び編集マンの方と打ち合わせした。いくつかの写真サンプルを持ち込み、次期イラク取材の狙いをお話させていただいた。夕方にヨコハマに戻り風呂に入った。そのまま先輩のライブハウスに音楽を聴きに行った。懐かしき顔ぶれがそろっていた。音楽だけでなくお話できることが楽しかった。先輩のライブが終わり、みなで関内にあるクラブに出向いた。外国人だらけで、ぶっとんでいる人たちばかりであった。アメリカ駐留軍のマリーン部隊の人たちばかりであった。テーブルでは腕相撲大会が開かれていて屈強な米軍兵士が膨大な掛け金の前に真剣勝負していた。この人たちにはかかわりたくないと感じた。午前3時に家に戻った。ニュースをチェックして眠った。明日も清掃活動しようと決めた。
2004年 6月 6日
イラク資材の軍資金の計算に明け暮れていた。かつてのイラク取材では隣国ヨルダンからバグダッドまで陸路を使い移動していたのであるが、日本人拘束から陸路ファルージャ通過のリスクが大きすぎるゆえに空の便を使わざるえない。アンマンバグダッド間をロイヤルヨルダン航空が運航しているのであるが、価格で足元をみまくりである。片道フライト1時間ほどで往復約1200ドルを請求する。日本からモスクワを経由してアンマンにたどり着く往復運賃より高値である。かつてのイラク取材の倍の出費を覚悟しなければならない。現地でもガイドの料金が高騰、危険の取材ゆえに金額が上がることはしょうがない。総合して取材で赤字にならないことはほとんどないという現実となる。それでもイラク取材はそれ以上の魅力あるものである。
2004年6月 7日
イラク取材で使うB=GANという通信機器をどこから調達するかリサーチ入れた。この機器を持っているのと持っていないのではイラク取材に大きな差が生じる。イラクではインターネット事情に期待するほうがおかしく、実際にインターネットカフェはあるものの断発的切断、停電、営業時間の短縮といった事情で原稿や写真を送ることに労力を使う。そこで活躍するのがb−GANである。電話はできないのであるがインターネットでの写真送付やメール送信はいつでもどこでも電波さえ受信できれば24時間稼動させることができる。その分、通信費も膨大なのであるがその価値は未曾有のものだ。イラク取材カメラマンにとって必要不可欠の機材である。インターネット環境が不安定な場所ではいざどうしてもネットをしなければならないとき、停電で使えませんとなると怒髪天を衝くほどの怒りを感じることがおおい、こうしたいかりをおさえるためにもB=ganはお勧めだ。
2004年 6月 8日
イラク報告会に参加した。イラク南部のバスラから来日されたドクターとの討論会というものであった。東京ドームのすぐそばで行われた。イラク取材で活躍されているそうそうたる先輩カメラマンが姿を見せていた。講演ではリアルなイラクの現状がよく伝わってきた。討論のほうも中身が濃かった。講演に参加することも大きな勉強になると実感した。会の後、先輩カメラマンと食事に繰り出した。編集部のかたも多数参加されイラク問題やパレスティナ問題の議題で熱く語り合った。熱く語りすぎて横浜に帰ることができなくなってしまった。ネット屋でメール返信作業と写真送付作業で朝を迎えることになった。24時間フルに活用できた一日であった。
2004年6月 9日
部屋のクーラーが壊れた。クーラーにもかかわらず熱い風が吹き出してくる。クーラーを取り外し分解して修復に挑んだが失敗した。壁に再度取り付けなおさずそのまま放置しとくことにした。部屋の中は散らかり、クーラーの中に溜まっていたごみが散乱した。掃除した。汗だくになり水風呂を浴びた。そして写真整理活動に入った。イラクなどの暑さに比べるとまだまだ快適なのであるが、湿気が強烈だ。洗濯物やべッドシーツやカバーが重たくなっている。カメラにもカビが生えるのではないかと心配だ。自分の部屋で菌に感染しないように気を配っていきたい。再度クーラー修復活動に入ることにした。
2004年 6月10日
写真の先生のもとにお邪魔した。イラク取材での写真の良し悪しを検証して勉強しなおした。イラクの光が強すぎるところや明暗の異常にはっきりしているところに気を配ることを指摘された。夜はヨコハマでNGO活動をされている方にお話を伺った。イラク問題の写真提供やお話をさせていただいた。さらに先輩方も参加してみなで国際問題を語り合った。
夜10時30分からご挨拶し、夜1時に終了した。お酒も入っていた。国際問題議題は最初の10分ほどで後は映画の話を伺っていた。映画が大好きで、見ていない映画があれば時間がゆるすかぎり鑑賞長時間耐久に参加したい。今日の映画の議題はパリ、テキサスであった。
2004年 6月 11日
出版でお世話になっている方にご挨拶と写真提出、イラク取材報告を行った。現場で自分が取材し、感じていたこと以外の盲点を様々な視点から指摘していただいた。心底勉強になった。物の見方が自分がいかに自己中心的に見ていたかわかりすぎて悲しくなってきた。
勉強が必要と思いつつ、うまくその効果を引き出せない自分に鞭打とうと決めた。イラク問題がいかに世間の注目をあつめているのか、日本人拘束事件が日本の危機管理の問題点を浮き彫りにしたことなど、考えさせられた。もし自分が捕まっていたらどうなっていたのだろうとシュミレーションを組むも、変わりはなかったのかもしれない。帰国できる幸せをかみ締めたい。
2004年6月 12日
映画館で映画を見た。真珠の耳飾の少女という映画である。刺激を受けた。熱くなった。映画を見てすぐ熱くなる悪い癖丸出しである。鎌倉にも出向いた。鶴岡八幡宮でイラク取材の成功を祈願した。人でごった返していた。人ごみ大好きだ。2週間後のイラク取材が気になってしょうがない。状況が非常に混乱をきたしている。飛び込んでくるニュースは連日続く爆破レジスタンス活動ばかりである。うまく帰国できるのであろうか、もしかしたら拘束されてしまうのではとイメージトレーニングばかりしていた。鎌倉にまたいってみたい。実によかった。寺を回り、集中力を高めたい。鎌倉でインドカレーを食べた。異常にからいひき肉カレーであった。汗だくになり気持ち悪くなった。
2004年 6月13日
横浜の自宅兼事務所のご近所さんと立ち話をした。かつてのイラクレポートをテレビで見てくれていた。よい部分と悪い部分をアドバイスいただいた。いつも自転車でヨコハマの街をさまよっている。ご近所さんにご挨拶したり浅間神社という小さな社に出向いたりしている。撮りためた写真を整理しているのであるが数が膨大すぎて埒が明かない。おまけに自分の部屋が狭すぎて写真整理に支障をきたしている。部屋をもっと有効に使えるようにいらないものは捨てることにした。写真整理をほったらかしでごみ出しに明け暮れた。不燃物を捨てるために市の不燃物処理所に問い合わせをしたり、いらない服や布っきれをゴミ袋に詰めた。結局写真整理せずに掃除で一日が終わり床で寝た。
2004年 6月14日
出版社を回った。一日に回れる数も限られているも編集部にいってみると取材のアドバイスや力をもらえて生気がみなぎってくる。イラクなどの現場取材も大変であるが、写真を受けて編集活動をする編集マンの仕事のほうが大変だと感じた。デスクワークはもちろん様々な記事に目を通し様々な人に会い締め切りまでに間に合わせる、見ているだけで血の気が引いてきた。みな優秀な人たちばかりで頭が下がる。きれいなビルでデスクワークをこなせる仕事は本当に幸せを感じているのだろうなと思っていた自分が間違っていた。テレビも雑誌も新聞もやはり仕事というものは地獄のように大変なのだと考えさせられた。
2004年6月 15日
部屋を片付け写真整理をした。あまりに膨大な写真の数にうんざりしながら一枚一枚に目をとおした。かつての写真からそのときの自分がなにを考えていたのか、怖いほどによくわかる。ファインダーをのぞいているときはその状況を覚えていないようで実はその前後に何が起こっていたのか記憶の片隅にストーリーが残っている。その日に誰と会い、何を食したのかも覚えている。気が高まっていた証拠なのかと一人頷いていた。写真整理も6時間以上やっていると集中力がなくなりデスクから離れてしまう。勝手に映画を見ようときめてシティーオブゴッドという映画を見た。強烈に面白い映画であった。カメラマンの原点を見た気がした。あまりに興奮しすぎて夜の散歩に出発した。
2004年 6月16日
先輩ジャーナリストと落ち合った、イラク取材でも大変お世話になっている先輩である。さらに先輩のかけ離れた後輩である記者志望の学生さんたちにも面会した。みな生気に満ち溢れ熱く語り合っていた。年が離れている人たちと何をお話したらいいのかよくわからなかった。時間が経過するにつれて現役のカメラマンや編集の方が次々と現れ、ますますエキサイトする夜となった。今までカメラマンの人たちと日本で出会うチャンスがなかったゆえに実にホットであった。それにしてもカメラマンは現場でもタフであるが飲み屋でもそれ以上にタフであると驚いた。もっともっと参加したいと思った。
2004年6月17日
局の方々にイラク取材の報告をさせていただいた。出発前に時間を作っていただき感謝の想いであった。イラクでは一人で取材しているゆえにムービーとスチールを同時に回すことは限りなく不可能であるといつも感じている。どちらを優先させるかは決まってスチールである。スチールにいつも夢中になっていてムービーを肩からかけたまま録画してしまっていることがよくある。どちらも中途半端になってしまうことが多い。両肩、首にごちゃごちゃとカメラをぶら下げている姿は実に情けないものである。そして恰好のソフトターゲットとして狙われることとなろう。スチールも面白くムービーも面白い、体力つけて首からカメラ平然と4台ぶら下げるほどのタフでいかれたカメラマンとして精進したいと思う。
2004年6月18日
夜行バスが好きだ。外国の移動も日本国内も夜行バスで長距離移動することが多い。長ければ長いほどより楽しい。狭い座席で眠ることができず現実と夢のハザマでトリップしていることが好きだ。バスに乗っていると集中力もアップする気がしている。郷愁の念にかられメルヘンの世界に入り込めるのが長距離バスである。ただ眠れないと次の日がつぶれる可能性が高い、それゆえに両刃の剣といえよう。バスがだめなら長距離列車も好きだ。何でもかんでも長距離であればそれで満足だ。最終的には徒歩で長距離が理想郷というものであろう。自転車長距離、早歩き長距離、映画耐久長距離鑑賞会、不眠耐久長距離、断食長距離、何でも好きだ。
2004年6月19日
名古屋に行った。友人の結婚式前にヨコハマから京都ダイレクトでなく名古屋経由にした。名古屋は面白い、好きだ。街中も活気があってたのしい。少し離れた森林地帯をさまようのも好きだ。日本も楽しい場所がたくさんある。自分にとって西日本方面はよく足を運ぶのであるが東日本方面は未踏の地が多い。取材から戻ってきたら次こそは東日本とおもいつつなかなか出発できずに西日本にいってしまう。家に閉じこもるのであればモーフ片手に日本国内をさまよいたい。山にこもり修行僧のような生活も理想である。ちょうど空手バカ一代のような厳しい生活環境を外国に追い求めているのかもしれない。
2004年 6月20日
学生時代の友人の結婚式に参加した。場所は京都。大学を卒業してから数年ぶりに出会う友人は企業戦士としてたくましさを増していた。コスモポリタンな会場で教会あり披露宴会場ありと一箇所ですべてが賄える便利でおしゃれなエリアであった。久しぶりに顔をそろえた友人たちから卒業してからのそれぞれの歴史を興味深く聞くことができた。みな見た目はぜんぜん変わっていなかった。京都一泊の予定であったので披露宴の後、新郎新婦と共に京都の繁華街の飲み屋で思い出話に華を咲かせた。学生時代はみなむちゃくちゃなほどお酒を浴びまくっていたが、さすがに年月がたったのか、みな非常にダンディーな飲みっぷりで冗談を交わした。イラクという戦場と違って日本を代表する京都の町は新鮮であった。夜中になってもホテルから抜け出し京都の街中をさまよった。人でごった返していて東京やヨコハマとまったく変わらない。道端には異常に派手なメイクをした女性たちが路上に座り込みはタバコをふかし缶チューハイを飲んでいる。日の出とともに帰らなければならないゆえに午前2時過ぎにはホテルに戻り就寝した。よく知らない街でうろつくことは外国旅行をしている気分であった。
2004年 6月21日
台風が日本中部に上陸して列車もバスも新幹線もストップしてしまった。横浜に戻れずに京都駅で電車が動くのを待っていた。修学旅行生もたくさん駅構内で足どめを食らっていて地べたに座り込んでいた。4時間ほど待って京都から近江八幡まで移動できたがそこでまた足止めをくらい、再び近江八幡の街中に繰り出してみた。駅前は栄えているも一歩離れると実にのどかな田園風景が広がっていた。暴風雨の中旅情に浸っていた。午後5時過ぎに再び電車が動き出し横浜に向かうも結局足止めを再びくらい名古屋で一泊することになった。結婚式に参加して意外なる旅ができたことが新鮮であった。もっともっと日本国内をさまよいたい。台風大好きになりそうだ。
2004年 6月22日
東京に無事に戻り、高田馬場に出陣した。目的はボウリングをすることであった。何年もボウリングをしたことがなかったのでフレッシュな気分で玉を投げ続けた。結果は悪夢であった。ヨコハマから東京に出る機会が非常に多い。様々な方々とお話をさせていただける機会を得ることがかさなり、イラク取材から戻ってくると決まって横浜にはおらず東京に出向いている。ひどいときは自宅に帰れなくなることもしばしばである。様々な職種の人たちとお話をすることは本当に面白い。刺激をいつも蓄えさせていただいている。そして次のイラク取材への活力となっている。一日の流れのペースを日本にいるあいだに確立させたいと思うもいつもスタックしてしまう。放浪癖でふらふらといたるところに出向いてしまいその快楽に浸ってしまう。イラクにいるときの時間の流れと日本での時間の流れのギャップが激しすぎてこの隙間を何とか埋めていきたいと感じている。
2004年 6月23日
昨年のイラク取材でコーディネーションをさせていただいた私にとっての先生とお会いすることができた。イラク取材やユーゴスラビアの現地取材をされておられるかたで国際情勢に非常に詳しい。実際にイラク取材のときもバグダッド、マフムディア、ファルージャ、バスラとイラク国内を縦横無尽に駆け回っていた。東京でイラクについて、そして国際情勢についてアドバイスをいただいた。先生のほかにもさらに執筆活動で活躍されている先生も紹介していただき興味深いお話を聞くことができた。何よりも先生の知識量の膨大さに圧巻であった。イラクに再度取材に入る私に安全を最優先することをアドバイスいただいた。いつもイラク取材は一人取材となっているのであるが、昨年はチーム取材が多かった。そして先輩の方々に様々な力と経験を伝授していただいた。イラクで取材を共にし日本で再会することは本当に興奮を覚えた。自分はもっともっと勉学に精進しなければならないと再確認させていただいた。数日後のイラク取材に準備周到で挑みたい。
2004年 6月24日
一日中、イラク取材に関して出版社や新聞社の方々にご報告に回った。状況が状況だけに現場で万が一のことがないように安全対策だけはしっかりしておくことをアドバイスとしていただいた。この出版社や新聞社周りというものも興味深いもので足を運べば運ぶほど話に華がさく。取材のことからプライベートなことまでざっくばらんに語り合えることは本当に楽しいものだ。まだ20歳のころ営業活動と称してメディア各社を回り始めたがその当時はまったく相手にされなかった。粘りつづけてやっと面会させていただいたときは居合いを入れて現場に入っていた。今もその思いはまったく変わらない。写真をとってもなかなか発表できないと気がめいってくる。粘りに粘ることがいかに重要か、戦地よりも日本で学ぶことができた気がしている。
2004年 6月25日
友人宅にお邪魔した。イラク取材出発前に報告を兼ねてお邪魔した。自分のうちからすぐ近くで何人もその家に集まった。デザイナーの方から映像ディレクター、映像プロデューサーと様々な職種の友人たちである。ヨコハマの自宅にいるときは決まって友人たちの家にお邪魔させていただいている。写真のお話から映像からデザインから色々な議題が浮かび上がる。刺激的な夜であった。出発の準備をしているも一向にはかどらない。持っていく機材のリストからインビテーションレターから自分では用意できない書類関係も多い。できる限り重量をかるくしてしゅっぱつできるように心がけている。イラク国内にも隣国アンマンにも機材を置きっぱなしにしているので日本から持っていくものは言わずと知れている量である。それでもかばん4つにもなってしまった。カメラがかさばって多すぎるのだ。ムービー、スチール、デジタル、パソコン、衛星電話、衛星通信機器等、それひとつでかさばるものばかりである。空港のオーバーウェイトが心配である。
2004年 6月26日
イラク取材前日、友人の結婚お披露目会に参加した。多数のメディア関係者が集っていた。まさに最高のパーティーであった。その後ライブの撮影に入った。午前様で帰宅し出発の再確認をする。取材内容と取材機材と現地との連絡をコネクトさせた。出発前は気が高まって眠ることができない。部屋の中をぐるぐる歩き回りながらシュミレーションをイメージトレーニングしていた。結局朝を迎えてしまう。出発前にラジオの生出演をさせていただき出発報告を行った。日本からイラクにまた入ることができるだけで幸せを感じた。決して誘拐されないよう気をつけていきたい。韓国の青年が殺害されるというショッキングな報道が耳に飛び込み恐怖を感じた。準備に準備を重ねカメラを捨てて逃げ出すことを優先させようと決めた。