03年12月


渡部陽一は12月23日にイラクより出国いたしました。



12月23日
本日バグダッドを離れた。バグダッドのアルファナール
ホテルにドライバーが迎えに来る。片道100ドルから200ドルまで価格のばらつきがあった。結局200ドルで手を打つことで合意した。他のジャーナリストとシェアしてアンマンに向かった。朝からバグダッドは雨が降っている。気温も5度前後と異常に寒い。真っ暗な道の中、米軍の検問をいくつも通過しながら国境に向かった。車が全く走っておらず、いやな空気がただよっていた。危険地域のファルージャ、ラマディー間は高速道路の電気もついておらず視界がさだまらない。帰国の途中に襲われるとなればすべての努力が水の泡になると思いつつも無事にアンマンに到着することのみを祈っていた。明日続編を記す。



12月22日  
バグダッドを明日離れることになり気が高まる。イラク国内取材中は気が休まることがなく修行僧の思いであった。長らくチームを組んできたガイドさんたちと今回の取材内容の反省会を開いた。自衛隊派遣予定地のサマワ取材をガイドと共に完遂できたこと、そして誰も怪我をせずに今日を迎えられたことを喜んだ。
最後の晩餐をした。イラク伝統料理のクージという羊の肉片を焼き飯に乗せたものをガイドと食した。日本食が恋しいこともあるがイラクの食事も決して引けをとらないヘビーフードであった。イラクを離れることが決まり気が引き締まるも悲しくなってきた。夜ベランダで郷愁の思いに一人勝手に浸っていた。



12月21日  
本日は某テレビ番組のための取材を早朝から行った。イラク市民のコメントをとるも人さまざまなものばかりでいつでも新鮮であった。フセイン元大統領が拘束されてから一週間がたった。イラク国内は平穏な普段どうりの生活に戻ってきている。フセインを支持する人たちが今でも爆破レジスタンス活動を繰り返す。イラク市民は今年中にイラクが落ち着くことはないであろうと口ずさむ。



12月20日  
公明党神崎代表がイラク南部自衛隊派遣予定地サマワに入った。同行者は代表以外に日本人3人、更にオランダ軍護衛兵士が8人ぐらい着いていた。午前10時50分に神崎代表がヘリでサマワに入った。そこから2時間の間キャンプ内で食事をしたりサマワ事情解説を聞いたりしていた。午後12時50分、2台の大型4輪駆動車に乗りサマワ郊外のの自衛隊キャンプ予定地を さらにサマワ中央病院を視察した。合計視察時間は1時間15分であった。コメントをいただいた。サマワは比較的安定しているもライフラインはいまだ厳しい。自衛隊の復興支援が役に立つであろうと語った。



12月19日  
サマワ取材を一度終えバグダッドに戻る。サマワの状況をバグダッドと比較するために一度戻る。外国人ジャーナリストと会食した。サマワに本当に自衛隊が来るのかと繰り返し聞いてばかりであった。軍隊を派遣している国のジャーナリストは長期間イラク滞在をし寝食を兵士たちと共にしている。そこから見えてくる兵士の声は生々しいものばかりである。何より故郷に帰りたいとみな口をそろえていた。



12月18日  
サマワの新聞社をまわった。サマワにはジャーナリスト協会というものがありこの一帯の記者からレポーターまで顔をそろえている。サマワの状況を聞いた。「サマワは安全だ。ただ町の郊外は相変わらずのアリババ天国だ。自衛隊が来ると聞いているよ。どこまで出来るか期待はしている。市民が日本の企業が一緒に来ないことを知ったら怒るだろうよ。」 非常にクールであった。


12月17日  
本日よりテキスト版のみです
バグダッドからサマワに向かった。自衛隊派遣予定地を神崎公明党代表が視察に訪れるという情報がはいり現地入りした。オランダ軍、cpa本部にその情報を問い合わせるも答えは全く聞いて以内の一点張りである。本当に神崎代表が来るのか疑わしい空気が流れる。サマワは静かで安全な町という報告は確かに当たっている。市民は非常に穏やかだ。日本歓迎を叫ぶ人までいる。いったいこの地に自衛隊がやってきてどのような活動をサマワ市民のために行うのか、ぜひ直接見てみたい。



12月16日
ティクリートに入った。フセインの捕まった村と洞穴を取材
するためだ。早朝から死の国道一号線を150KMで走り抜ける。日本大使館員殺害現場にも入った。人がいない静かな幹線道路上での事件であった。悲しい事件だ。フセインの村に入るも米軍の検問に引っかかり入り口での取材で終わる。テクリートのCPA本部に取材申請を出しに足を運んだ。物々しい警戒態勢がしかれている。確かにバグダッドと違ういやな空気が流れている。市民の目が冷たく映る。フセインの生まれた町でフセインが捕まった。やはり故郷は恋しい。元大統領といえどやはり同じ人間なのだと納得した。


本日ティクリートに向かいました。ティクリートのほうでサダムフセインガ拘束されたアルドワ地区、アルDOR地区、取材に入ったんですけどもそこで米軍の検問にひっかかりました。米軍の言い分としてはCPAティクリート本部から取材許可書、もしくはコーディネートをつれてきて初めて君たちを入れることができるという話です。
私は即ティクリートに向かいました。本日ティクリートでティクリート市民と米軍との激しい銃撃戦があり、ティクリートの町に入るまでが検問で2時間の待ちです。
橋をわたってティクリートに入るとCPAがすぐあります。そのCPA本部でロイター通信とサンデータイムスのニュース記者と3人そろってフセイン元大統領のもぐっていた穴倉取材の申請をだしました。
するとCPAの広報担当の方はこういいます。
今プレス関係者が殺到している、君たちだけを簡単に入れることは出来ない、今日と明日は一切うけつけないのであさって合同で取材チームをつくるからそのとききてください。
その代わりメールアドレスをおしえるのでそこに申請書と自分の名前、貴社章、持ってる機材、同行者の名前を書いてください。そのメールを送り私はティクリートをあとにしました。帰りにかつての日本大使館の二人が殺害された場所、そのエリアを取材に入り、なんともいえない周り、砂漠だらけなんですけれども、人気のない高速道路、不思議な人気のないなんともいえない思いにさせられました。
今もこうして電話の横で銃撃戦がやられてます。



12月15日
徹夜でフセイン元大統領拘束ニュースを日本に中継する。パレスチナホテルの中継ポイントにたち一人話し続けた。睡眠を取ることなどあまりの興奮で気にもかからない。歴史が動いた瞬間に現地に入れたことが嬉しかった。フセイン元大統領拘束でバグダッド市内は爆破事件のラッシュとなった。

サダムフセイン元大統領が拘束され、1日がたちました。
昨日の大騒ぎ、市民たちが銃を持ち出し空に乱射する、祝砲、祝いを祝っていたんですけれども1日あけてからはだいぶ町は落ち着きを取り戻しています。
人が集まる場所、市場や警察署や、CPAのほうはかなり激しいひとのやりとり、デモがおこなわれているんですけども市民生活は普段どおりです。
元大統領が拘束された、喜んでいる人がほとんどなんですけども、悲しんでいる人もそれなりにいます。
もとフセイン支持派の人たち、たとえば中級階級よりも上の人たち、元大統領から恩恵を受けていた人たち、バース党員、さらにタクシー運転手にいたるまでかなり、支持者が多いなという実感です。
元大統領が拘束され、輸送されている米軍に無抵抗で交拘留したということイラク市民はフセイン元大統領が命を落とさなかったということを非常に悲しんでいます。私自身も元大統領拘束されたことを1日たって改めてかみしめてます。
未だにまだ半信半疑の部分もなんとなしに拭い去れない思いです。


12月14日
前半は後日届いたテキスト版日記です
フセイン元大統領拘束、歴史が動いた。このニュースはイラク国内どころか世界に衝撃ニュースとして配信された。フセインが捕まった、フセインが捕まった、口から出てくることは誰しもこの同じせりふのみであった。日本へのテレビ中継がスタートした。この日から30時間ほど中継の忙しさに追われることになるとは想像できなかった。

ここからは電話収録版です

12月14日、午後1時、バグダット市内にある新聞社を取材中、速報がはいってきました。
サダムフセイン元大統領拘束、そのニュースを聞き私は即、街中の取材に入りました。
市民たちがどのような反応を示しているのか、それをカメラに収めるためにガイドと一緒に街中に出ました。市民たちはテレビ、ラジオをくいいるように見たり聞いたりし、動揺を隠せない状況です。信じられない、これはプロパガンダじゃないのかまたアメリカの得意のがせネタじゃないのかというような半信半疑のおもいでしたけれど、その1発目報道の1時のあとの3時、CPA側からWE GOT ITというWE GOT HIMという報告があり、イラク市民は一気に歓声の渦にまきこまれました。
喜んでいる反面泣き崩れている人もいます。
CPAの記者会見の記者団の中にも泣いている人がいました。
元大統領拘束ということで私はそのまま日本のテレビ局、さらには雑誌、ラジオの中継のほうに入ります。1日24時間体制で睡眠をとらずに中継中継中継、電話、原稿、中継、
取材、インタビューとまるで開戦中をむかえるようなそれだけ緊迫したような忙しい一日でした。
ただ睡眠をとらなくてもこうした世界の歯車が動き出した瞬間のこの現場に入れたことを2年間ずっとバグダット取材を続けていて現場に入れたことを嬉しく思っています。この先のイラクの動向をどうなるかさらに見つめていきたいと思います。



12月13日
今日のサマワ取材からバグダットに戻る、そして伝送、というような流れでした。
サマワの取材では、かつてもサマワ取材約1ヶ月ほど入っていたので、場所の地理上や状況はよくわかっていたんですけれども、やはり市民の感情というのは変わっていました。
オランダ軍の駐留に対して、反感を持っている人がたくさんいました。
日本が自衛隊を派遣するということもみんな知っていました。
自衛隊が来るということで日本の企業も一緒にくるということを前提でみんな歓迎していたようです。企業はきませんという事を市民に伝えるとそんな話聞いてない、それだったらお呼びでないとサマワ市民はいっていました。
この先サマワ、自衛隊が来ると、さまざまな事件や事故が起こると思います。もちろんサマワの市民にとっても自衛隊の貢献というのは大きな力になると思います。
ただ、やはり、危険だということは私が取材をし続けて感じた実感です。
街中は安心ですけど決して油断できないイラクの中のひとつの都市、わきにはユーフラテス川が流れ、市民は買い物したり手をつないで歩いたり、ゆったりした流れなんですけどその裏でどういった動きがあるのかキャッチするのはまだまだ日本側からも、こうして取材する私からも見えない部分がたくさんあります。

12月12日
サマワ取材2日目。
今回はサマワの取材をひとつのメインできました。サマワはかつて取材ポイントとして選んだんですけども、今のサマワの状況は非常に不安定です。
ちょうど12月の8日ですね、8日の日にデモンストレーションが開かれ、CPAの本部の前で失業者が集い、自分たちに仕事をくれ、約束を破っているCPAのオランダ軍
約束を全然守ってないことを我々は気に食わない、だから我々はデモを起こしている、約束を破ったあなたたちが悪い、私たちを助けるためにきてくれたのに、なぜ助けてくれないんだということでデモを起こしたんですけども、そのまま暴動に流れ込み、オランダ軍と衝突ということになりました。負傷者が4名でています。
サマワ市民は失業という事で色々みんな生活に困っているんですけども、特にその、その日に、今日取材の中で大きかったのが、ニッカウラン弾が使われていたことの証明をとれました。ニッカウラン弾がサマワの郊外、ユーフラテス川を渡ったところでニッカウラン弾が2発打ち込まれていました。いわゆるサマワは自衛隊派遣予定地で,ニッカウラン弾も撃たれているというそういった影響もこの先の自衛隊派遣に何かの力、力というか何かの動きを与える証明になるかもしれません。
ニッカウラン弾、あともうひとつその日には、学校、病院のほうもまわりました。サマワの病院は日本の器具を扱った病院で、手術室にももぐってみたんですけど資材はまだまだ不足しています。患者さんはほとんどが一般病棟という事で、老人あとは怪我をした人たちさらには盲腸と日本の病院とほとんどかわらないシステムです。
立派な建物の病院です、あと水道、医療機器が不足している現状です。
学校のほうもしっかり動いていました。小学生たちが英語の授業でテストをしていました。
ABCDE大文字と小文字を結びましょうというような試験で非常にシンプルなんですけどもイラクの子どもたちにとっては非常に不可解な文字です。ちょうど宇宙の文字を読んでるような感覚で一心不乱にテストの答えを書いていました。
サマワ、一見見ると、取材を一日回ってみて、非常にほんとに平和で静かで笑いのある、魅力ある町です。自然も豊富です。ユーフラテス川も美しいです。
人々も優しいです。ここに自衛隊が来ることを決めたのは確かに理由もわかります。
ただ、やはりその背景、まだまだ優しさの反面、その裏にうごめいているさまざまな組織や反米感情、反駐留活動、見えないものが沢山あります。
僕自身もジャーナリストとして、安全第一をモットーに取材をしていますけど、何が起こるかわからないゆえに恐怖感でいっぱいです。ましてや、自衛隊が来るという、自衛隊の人たちは、もっと恐怖感でいっぱいではないかと実感する一日でした。




12月11日 
本日より電話収録の書き起こしで日記を配信します

サマワ取材初日、この日はサマワからバグダットに入りました。サマワはかつて1ヶ月前に入ったなつかしい町ゆえにバグダットが約350キロの工程をボクとガイドともう一人いわゆるボディガードのような一人をガイドにつけ3人で回ります。
ガイドとそれぞれにお金を支払っていて一人40ドルというお金を払い僕自身の懐はわずか4日5日ほどでもうなくなってしまうという現状です。
それでも40ドル払う価値が彼らにはあります。貴重な情報量、行動力、そして何よりも何かあったときボクを守ってくれる、立派なガイドたちです。2年間共にしてきている仲間です。家族のような存在です。ボクが生き残っても彼らに何かあったりするとボクの責任というよりも、ぼくももう何をしていいかわからない状況です。
サマワはそれぞれの高速道路から米軍の物資、オランダ軍物資がもうコンボイトレーラーが何十台も列を連なっています。
町に入るとより普段どうりのイラク市民のサマワ市民の生活が送られていました。
楽しく食事をしたり買い物をしたり、お茶を飲んだり、さらにはサッカーをしたり、勉強をしたり、恋人と電話をしたり、1ヶ月前と変わったところは電気ガス水道、郊外のほうの一般家庭に入ってみたんですけど電気ガス水道きてませんでした。
電気は不定期にはきてるんですけどもボクがいったときにはだめでした。
ガスはありませんでした。火をおこして、それを火種を、こうなんていうんでしょうか、
釜?のような中に入れそこでパンを焼いていました。
水に関しては出てませんでした。蛇口をひねっても出てない状況で、水道ポンプで地下からくみ上げてそれをかめの中にためて、体を洗ったり、お茶を作ったり、洗濯してました。
いわゆるインストラクチャーの上で自衛隊がこの先サマワの復興をするそうした面で必要な部分も確かにあります。こうして日記をかいているわきで、なぜか銃の音がバンバン
聞こえます。サマワ市民ほんとに魅力的です。
今のサマワの日中の気温は大体30度くらいですね。
夜になると非常にみっちり冷え込みます。
もうジャケットや、ぼくは皮ジャンを着ていたんですけどそれでも寒く、外で衛星電話で日本と連絡をとったり、ガイドと連絡をとったりしているときは寒さに震えホントにもう鼻もたれていました。そういった寒さ、気候の変化も1ヶ月前と大きく変わっていることです。サマワ、取材のほう徹底的に市民の声を聞いていこうと思っています。
それを日本に伝えたいと思います。


12月10日  
イラクに入る。午前3時にアンマンをたつ。国境まで3時間。イミグレで1時間、イラク側イミグレで10分。スムーズにイラクに入る。国境からバグダッドまで約600KM、時速150KMで車を走らせる。午後3時にバグダッドに着いた。移動中の武装強盗団の出没はなかった。運転手も安全に気を配っていた。到着してバグダッドにある安宿アンダルスパレスにチェックインした。一泊8ドルとられてしまった。電気も止まっていた。部屋には机もなかった。それでも快適なホテルである。お薦めだ。明朝からサマワに入る。


12月9日   
ヨルダンでイラク入りの準備に明け暮れた。防弾チョッキは手に入れることはできなかった。

マンゴジュースを朝から飲み続け体調は万全になった。日付け変更した午前3時にバグダッドに向かう。車はアメリカ製のGMCを使う。一台150ドルといわれた。前金で70ドル払いドライバーと握手した。


12月8日   
ヨルダン首都アンマンにはいった。日本より寒い。エアポートタクシーの運転手と値段交渉。
ぶつかるも根はいい人であった。寒くて上着を購入するつもりである。バグダッドから帰ってきた旅行者がものすごくいることに驚いた。奇妙な情報が飛び交っている。日本人バックパッカー一人が行方不明になっている。裏のない話であったが気になるものである。
※注意 この情報は12月11日現在、確認は取れていません




アジアニュース発・速報




治安悪化懸念されるバグダッド
<12月15日3時00分>
渡部の宿泊するホテルの真裏で爆破音。警察車両が爆破された。
バグダッド市内では急速に治安が悪化している。サダム元大統領拘束のニュースが流れたこの夜は人通りが少ない。多くの市民が治安悪化を察知し、外出を控えた模様である。米軍、イラク警察とも警備を厳重にしている矢先の出来事だった。
この車両爆破事件を取材中の渡部も強盗に襲われている。取材中に後ろからカ取材カメラを奪われた。(その後取り返す)
注意:その後の報道では爆破は事故との情報があります(04:35)

電話リポート(バグダッド市内で爆破事件・渡部強盗に)

フセイン元大統領拘束続報
<12月14日19時55分>
CPAに向かった特派員によると、バグダッド市内では市民が歓喜の銃を打ち鳴らしている。CPAサイドは現地時間15時(日本時間21時)から記者会見を行う模様。

速報 イラクでフセイン元大統領逮捕
<12月14日 19:25>
当社特派員に入った情報によるとサダム・フセイン元大統領がティクリートで逮捕された模様。バグダッド市内の新聞社では記者の出入りが激しくなっている。またこのニュースは瞬く間にバグダッド市内に広がり市民は興奮状態にあると言う。
(取材:渡部陽一)ASIANEWS発
電話リポート(フセイン元大統領拘束第1報)



12月13日 サマワ「横断幕」の真相と現地ガイド
サマワ市内では最近日本を歓迎する多くの横断幕が掲げられているのはご存知の通りである。
「日本の皆様を歓迎します」
「日本の自衛隊の皆様を歓迎します」
という文字がアラビア語と共に日本語でも表記される。
この横断幕がちょっとした話題を生んだ。
実はこの横断幕は日本人ジャーナリストが現地の人に頼まれて書いたものなのだが、その1枚が騒動の発端。
その横断幕のアラビア語原文は「日本の皆様を歓迎します」。
ところが日本語は「日本の自衛隊の皆様を歓迎します」。
つまりこのジャーナリストが「自衛隊」の文字を加えたのではないか、という「疑惑」があったのだ。

渡部陽一がこのジャーナリストにサマワで接触。真相を聞いところ、現地ガイド兼通訳が「日本の自衛隊」と訳したのでそう書いたのだという。

戦争報道と現地ガイドの通訳技術は常に我々の悩みの種だ。
実際アジアニュースでも10月にイラクを取材した際、翻訳ミスが発生している。
通常取材終了後、再度日本で翻訳を行うため、最終的には正しい訳が行われるのだが、現地では完全に同行したガイドの翻訳が頼りだ。
従ってガイドの人選は非常に大きなポイントとなる。
例えばシーア派の地域で取材を行う場合、そのガイドがスンニ派の人間ならば正しい翻訳をするのか?
或いはアフガニスタンで、少数派民族の難民を取材する場合に、多数派民族の通訳を連れて行けばどうなるのか。

我々の雇うガイドは現地語から英語に訳すことが殆どだ。
通訳本人は英語を学ぶだけあって国際情勢を理解する、比較的アカデミックな人間が多いのだが、それでも何度も翻訳ミスに悩まされる。
ミスなら良いのだが、通訳が「取材スタッフはこういう事を聞きたいのだろう」とサービスの積もりで勝手にこちらのクエスチョンや、インタビュー相手のコメントを変えてしまう場合も非常に多いのだ。
この問題、根本的に解決しようと思えば日本から現地語を話せる日本人通訳を連れて行くのがベストである。しかし少ない予算で取材の赴くジャーナリストにそれは出来ない。
現地での人選にベストを尽くすこと、帰国してからの翻訳チェックを入念に行うこと。これが我々に出来る最大限の努力である。

現地からの生リポートはこうした背景があることを充分に把握した上で配信する必要があることを改めて認識した一件であった。
(記事:板倉弘明)