米軍密着
7月24日更新
主権移譲後も依然として駐留するアメリカを中心とした連合軍。21日の報道によるとバグダッド西方のアンバール州で戦闘があり3名の米兵がまた死亡した。これで去年3月以降少なくとも659名が死亡した計算となる。
去年我々が戦闘直後にイラクを訪れた際、兵士たちは我々のインタビューに答え、「この国に自由をもたらす」と自信を持って語っていた。そして戦争から1年を経て再び我々がインタビューを試みても彼ら(彼女ら)は決してレンズに目を向けようとしない。
イラクに駐在するアメリカ軍を見つめる視線は確実に冷たく、そして怒りを帯びてきている。母国に帰れば普通の息子や娘、或いは夫や妻、父や母である兵士たちはイラクの未来をどのように考えているのであろうか。自分たちが敵視されていることをどの様に受け止めているのであろうか。
イラク駐留米軍の行動の実態はこれまで日本のメディアによって細かく伝えられることが少なかった。言うまでも無く兵士と行動を共にすることには非常に大きな危険があり、それ故に取材も報道も控えられてきたからだ。
日本と「連合」を組んだアメリカ軍に渡部陽一が5日間密着した。
※この取材はアメリカ軍へ従軍して行う「エンベデット」と呼ばれる取材です。記者の取材に関しては保安の理由により米軍から大きな制限が課せられていることをご了承ください。
エネルギーの源は「食」「住」
米軍従軍取材がスタートした。バグダッド郊外にあるタージでの従軍となる。ベースキャンプ地はキャンプクック、10000人が駐留する巨大キャンプだ。朝からのバグダッド市内のパトロールに密着した。カメラマンとしてハンビ(米軍攻撃型ジープ)に乗り込みキャプテン筆頭に第39師団に張り付いた。バグダッドでいつも米軍取材にてこずっていたゆえに、こうして米軍と共に行動していることが信じられない。撮影もほとんどお咎め無しであった。キャプテンを頭に3台のハンビでのパトロールである。兵士の数はそれぞれのハンビに4人合計12人の行動となる。街中を縦横無尽に走り回った。渋滞もお構い無しに突っ込み、縁石も乗り上げながら走行した。イラク市民のこちらを見る視線が冷たかった。そして攻撃されるのではという緊迫感が走行中いつもびしびしと感じられた。防弾ヘルメット、防弾チョッキをパトロール中は羽織っている。米軍密着の取材だけでこれほど危険緊迫感を感じるものとは思わなかった。あたかも狙ってくれといっているような雰囲気であった。ベースキャンプ地に夕方戻った。汗だくだ。防弾チョッキの下は塩を吹いていた。カメラは砂塵で変色している。夕食はベースキャンプ地内にある食堂でキャプテンたちと食した。すべて食べ放題式なのだが料理がすごい。西洋料理からインド料理からイラク料理からチャイニーズから選びたい放題、食べ放題である。私はロブスターとラザニアを食した。バタースコッチアイスクリームも食べた。イラクでのこれほどの贅沢料理は初めてだ。部屋に案内された。EMBED(寝食共にする米軍取材)というだけあり雑魚寝部屋かと思っていたらシングルルームでエアコンつき、ベッド、シャワー、喫煙エリア、便所ときれいに磨き上げられていた。バグダッドのホテルより快適だ。この従軍取材は危険であるが病み付きになりそうである。明日は早朝からパトロールとなる。
(2004年7月18日発)
売店とテレビと50℃の訓練
米軍取材が続く。朝6時に起床し、まずキャプテンと今日のパトロール内容の報告と注意事項を受ける。朝食をとる。スクランブルエッグ、ベーコン、ポークソーセージ、ハッシュドポテト、チョコレートミルク750mlである。朝からビュッフェで兵士たちは食べすぎといえるほどジャンクフードを食す。午前中はキャンプ地内の取材を行った。キャンプクックの広報担当官と話した。私の取材プログラムはすべて受けてくれるといった。米軍側に入るとジャーナリストであっても同じ仲間として恐ろしく気を使ってくれる。街中での命がけの米軍取材とは大きくかけ離れていた。
キャンプ地内にはPXストアというミリタリースーパーが存在する。かつてのナシリアでの米軍キャンプ地でもやはりこのPXストアが兵士の憩いのショッピングとなっていた。店内には米国本土と同じ商品が並べられ、価格も同じであった。ミリタリーグッズからお菓子からDVDから洋服、電化製品まですべてが手に入る。酒類はノンアルコールビールを売っていた。巨大ポテトチップ一袋100円、陸軍仕様軍用シューズ9900円、CD1000円、コカコーラ350ml、70円、チョコレートクッキーファミリーサイズ200円であった。日本よりわずかに安かった。兵士用食堂を取材した。昨日も驚いたがバリエーションといいボリュームといい無制限である。大柄な兵士は一度の食事で巨大サンドイッチ、タコス、フライドチキン、マッシュポテト、トマトチキンソテー、サラダバー、ドリンクバー、アイスクリームバーを平らげていた。食堂のテレビではアメリカン大リーグが中継されていた。昼からはINGと呼ばれるイラク保安警察の訓練に密着。基地内でのトレーニングのあと、タージの村々での実践のパトロールが行われた。気温が50度、防弾チョッキ、ヘルメット、水筒、通信電話などのオプションをあわせると30kgほどになる。何時間も灼熱のなか村々の隅々までパトロールした。レジスタンス活動にぶつかることはなかったが、とてつもない緊迫感でみな壁に寄り添うように行軍した。イラク兵士と米軍が共に訓練し、共に実践でパトロールしていたことが新鮮であった。毎日こうしたパトロールが行われていた。日が沈みキャンプに帰還した。みなで夕食をとった。マッシュポテト、マカロニサラダ、ビーフチーズハンバーガーを食した。夜は宿舎で写真を整理した。トレーラーハウス、PODNo7の自分のコンテナルームは約6畳間、床は砂塵が積もっていた。トビラの外は喫煙エリアとなっており夜間パトロールがない兵士たちとタバコをふかしながら冗談を言い合った。自分が従軍している第39師団はアメリカ南部アーカンソー州からの兵士たちであった。兵士たちは女性の話ばかりしていた。家族から兵士に送られてくる差し入れの荷物をみなで面白おかしく開封して、笑いあった。イラク人と一緒で米軍兵士も家族愛と郷愁の念に満ち溢れていた。(2004年7月19日発)
「イラクに平和は訪れる。但しとてつもない時間がかかるだろう」
午前5時30分起床、朝食を食べる。ハッシュドポテト、スクランブルエッグ、バナナシェイクを食した。午前7時から米軍第39師団のバグダッドパトロールについた。完全武装のハンビ(HIGH−MOVILITY−MULTI−VEICHLE,通称HUMVEE)の後部座席に乗り込みカメラを構えた。バグダッドまではハンビ3台の12人チーム。バグダッドに入ってから他の師団と合流して合計8台ほどの大部隊となった。バグダッドではパトロール以外にアブノアエリアの公園建築が米軍によって行われている。その土木作業を米軍兵士が行っていた。イラク人も土木作業員として何十人と雇われていた。午後まで作業が続き、再びパトロール、バグダッドから国道1号線を北上した。今朝早朝午前4時30分に自分の宿営地であるタージキャンプにモートンとよばれる迫撃砲が打ち込まれた、爆音で目がさめた。パトロールから帰って夜7時過ぎ、キャンプ地内で爆音が6発連続で響き渡った。タージがスンニトライアングルのど真ん中に位置していることを思い知らされた。兵士たちは平然と業務をこなししていた。無事怪我なく一日が終わった。夕食はラビオリとフライドポテトとカカオシェイクを1リットル飲んだ。ほかの兵士たちはノンアルコールビールを飲んでいた。帰国したらシャンパンとレッドワインを飲み明かすと兵士たちは語っていた。夜はまた自分の部屋の前の喫煙エリアに集まりタバコをふかしながら兵士たちと時間を過ごした。インタビューをするときと違って兵士も夜のリラックス時間として本音をずけずけと言うところがおもしろい。イラク情勢についても語った。ほとんどの兵士がいずれはイラクに平和は来ると思っているが、時間はとてつもなく長いだろうといっていた。フリーダムをイラクに与えているとは思わないといっていた。女性兵士はタバコをモクモクとふかしながら、だんなさんの写真を見せていろいろその背景を語ってくれた。笑いにとんだ夜をすごした。コンテナルームは壁が筒抜けで隣の部屋の音楽ががんがんに聞こえてくる。ほとんどの兵士がハードロックを聞いていた。シャワーにはいると兵士たちのほとんどが全身にタトゥーを入れまくっていることに驚いた。便所もシャワールームも清潔で気持ちがいい。ベースキャンプ内の清掃担当はフィリピンの人たちがやっていた。食堂もフィリピンの方とパキスタンの人が多かった。(2004年7月20日発)
米兵“チョンガー”
キャンプクックベースキャンプ地で生活する米軍兵士の生活を追った。米軍兵士みなコンテナハウスの一部屋に良くて一人部屋、悪くても2人部屋に住んでいた。小型エアーコンディションありでベッドもある。一人の男性兵士の部屋にお邪魔した。米軍キャンプ地で6ヵ月住んでいる男性の部屋はまさに独身男性の部屋真っ盛りであった。壁には女性のヌード写真がでかでかと飾られ、アメリカポップアイドルのポスターが所狭しと貼り付けてある。その脇にはM−16の銃が横たわりいくつものマガジンが無造作に置かれている。ベッドは脱ぎっぱなしのシャツやズボンが放置してあり、明らかにその上で寝ているといわんばかりに衣類はぺしゃんこになっていた。実際この男性は結婚していてアメリカ本土オハイオの家では妻が清潔な部屋をつくろってくれているといっていた。子供もいる。全身にタトゥーを入れまくりであった。日が沈むとご近所のコンテナルームでくすぶっている兵士たちが集まってきて、ギターを弾きながらカントリーミュージックを奏でていた。みなアーカンソーやオハイオ、そしてバッファローニューヨーク出身者ばかりであった。みなからだが大柄で、大声でしゃべり、笑い、冗談を言い合っていた。イラクにありながら完全に地元の雰囲気で生活していた。みなタバコや葉巻をふかしていた。灰皿は使用後の122mm砲弾を使っていた。教会関係者がキャンプ内で夜間ミサを行っていたがひとっこ一人参加していなかった。教会のパイプオルガンの録音テープを流していたが周りの兵士からうるさいとひんしゅくをかっていた。20分ほどで撤収させられた。みなあまりにも親切で感動した。部屋で写真編集などをしていると決まって夜8時ごろトビラをノックして兵士の溜まり場に連れて行ってくれた。酒のないパーティーでみなファンタやコーラを飲みながら女性の話や仮に帰国できたら最初に飲む酒はワインだビールだと熱く語っていた。パトロール中に見せる死との狭間の表情とは大きくかけ離れていた。アメリカ南部出身者は軍帽を脱ぎ、ウエスタンハットを被りながら葉巻をふかしている人が多かった。マルボロのコマーシャル通りであった。夜11時には部屋に戻りしっかりと睡眠をとった。(2004年7月21日発)
ブラック・ホーク
朝からブラックホークヘリでの取材となった。朝食を6時30分にとった。ハッシュドポテトとチョコレートミルクとドリトスチップスを食べた。ヘリコプターでの取材は今回が初めてであったゆえ、機材も装備も万全で挑んだ。映画ブラックホークダウンのまさにブラックホークがここイラクでも現役活躍中であった。パイロット以外には12人乗れた。タージキャンプからバグダッド市内のベースキャンプ地への移動とパトロールをかねていた。フライト中はブラックホークダウンされないか、緊張していた。ものすごい低空飛行でRPG7ランチャーで狙われればおしまいである。イラク取材ではいつも地上からアパッチやブラックホークを撮影していた。その折にカメラが砲撃に見えて攻撃されるのではといつも怯えていた。実際にヘリから地上を見ると地上の人が何を持っているかまったく識別できなかった。スピードが速すぎて人や家をじっくり見ることや狙うことはほとんど不可能であった。
そしてヘリのプロペラの音がうるさすぎて音を拾うことも会話をすることもできなかった。耳がおかしくなった。
地上のハンビの攻撃型ジープとは違ったパトロールの危険と醍醐味を取材することができた。ブラックホーク取材の後はハンビでのバグダッドパトロールを行った。大所帯でハンビ5台、大型トラックの輸送車3台のでのバグダッド入りとなった。途中ちょっとしたエンジントラブルで国道沿いでの足止めを食らった以外は特に問題はなかった。相変わらず渋滞をぶち抜いていく米軍の運転には恐怖を感じた。イラク市民の目が冷たくそして恐ろしさを感じた。いくつかのバグダッドベースキャンプ地を回りハンビ車列が自分をホテルまでエスコートしてくれた。一部の米軍兵士はハンビに乗車中、日本にまだ忍者というものはいるのかと真剣に質問してきた。カルチャーギャップの激しさを感じた。日本には忍者はもう一人もいないと釘をさしておいた。みな映画を見すぎているらしかった。(2004年7月22日発)