日本人拉致2
渡部陽一・戦後イラクリポート 4月19日更新
緊急リポート:イラクで日本人2名拘束か?
日本時間15日午前0時30分。イラクでまた日本人2名が拘束との情報が入る。名前は「ワタナベ」「ヤスダ」2氏。それから5分後ASIANEWSに猛烈な勢いでメディアからの問い合わせが入った。「ワタナベ」の名前が渡部陽一ではないかという。ASIANEWSにはこの速報が入るほんの15分ほど前に本人から連絡が入っており、違うものと推測した、午前2時過ぎに改めて本人の安否を確認した。
ところで拉致されたとされるワタナベ氏とヤスダ氏であるが、その後安田純平さんと渡辺修孝さんであることが判明した。
当社の渡部陽一に確認を取ったところ、この二人は日本時間15日午前5時(現地時間同日深夜0時)現在、バグダッド市内に借りているアパートに戻っていないことが判明した。以下渡部陽一の緊急リポートを送る。
■4月15日
4月14日の取材日記から
日本人二人が拘束されたという情報が現地時間午後7時すぎに飛び込んできた。ひとりはジャーナリスト安田純平氏、もう一人は渡辺氏。安田氏がジャーナリストで渡辺氏は個人NGO活動家である。バグダッド西方にある激戦地ファルージャにおいて撃墜された米軍ヘリの撮影に向かう途中、アブーグレイブというやはり最激戦地のひとつの町で武装勢力に拘束された模様だ。二人にはバグダッドで出会い、サマワにおいは安田氏とともに取材をした。二人はホテル暮らしでなく一般民家の屋上に一部屋をかり共同生活を送っていた。バグダッド市内においては行動を共にしていた。危険の伴うファルージャ取材に二人で向かったことはほぼ間違いないと思われる。外国人拘束人質作戦がイラク全土に広がりつつある。(以上取材日記から)
生活の“におい”を残して・邦人2名行方不明
日本人男性二人がバグダッド西方20km地点にあるアブグレイブにおいて拘束された可能性が強いという情報がバグダッドに滞在するジャーナリストの間で飛び交っている。実際に拘束された疑いの強い二人の宿泊先に足を運んでみたが、部屋の中は脱ぎ捨てられた衣類やあけっぱなしのかばん、パソコンと生活臭が溢れていた。イラク取材においてジャーナリストが夜間取材に出ることはありえない。ジャーナリストたちは状況を熟知しているゆえに夜間に外出することがいかに危険なことかよくわかっている。それゆえに二人が部屋に戻ってきていないことがこの事件の信憑性をたかめている。外国人を拘束することがいかに世界世論に功を奏すか、武装ゲリラだけでなく一般市民もわかっている。拘束人質事件に便乗する者も増えてきているといえる。爆破レジスタンス活動から拘束人質作戦へ武装勢力の方針が向いてきている。
安田氏とは都内でも呑みに行った
安田氏とは戦前に初めてイラク・バグダッドで出会った。まだフセイン政権下でイラク攻撃が回避できるのではと思われていたころだ。安田氏は氏信濃毎日新聞記者をやめイラクにフリージャーナリストとしてやってきていた。非常の優しく気さくな男性だ。その後戦争中も国内に残る。去年4月下旬頃、都内で飲みに出かける機会があったが、「無事に帰れてよかった」「写真って中々売れないものですね」と語り合った。安田氏はその後も何度かイラクに訪れている。クルド取材は日本の雑誌(確かフラッシュ)に掲載されたりしていた。今回の取材では(渡部陽一は3月18日にイラク入国)3月14日の日本モスクワ行きの便が一緒で一緒になり情報交換をした。彼はダマスカスに入り私はアンマンに向かった。その後サマワで4月5日に自衛隊取材に出向いた際に再会している。同じホテルに宿泊した。安田氏は日本の新聞社から提供された電話を持っていたが、自衛隊の記者証を持っておらず、申請の為にサマワの宿営地まで一緒に行った。この時に女性自衛官を取材したいと話している。次の日私はバグダッドに戻る。安田氏は8日までサマワ取材をするといっていた。ちょうどサデルシティーが米軍衝突のさなかでバグダッドに早目に戻るといっていた。
4月2日・渡辺氏と出会う
4月2日 午後3時過ぎバグダッド、中心部サドゥンストリート、タハリールスクエアで出会う。この時は既に渡辺氏と行動を共にしていた。丁度CPA前でシーア派ムクタダサデル氏の合同金曜礼拝が行われていて私がその取材を終えた後初めて会った。物静かな人、黒いカメラマンジャケットを着ていた。肩がけショルダーバッグを後ろにかけていた。めがねをかけていた。これから終了した礼拝現場に向かっていった。個人的にNGO的な活動をしていた様子があるが詳細は不明。
一ヶ月170ドル・取材費節約のため意気投合か
バグダッド中心部、アンダルスパレスホテル前にある一般家屋の屋上に部屋を借りていた。二人でシェアしていた。4月2日にバグダッド市内で二人に会ったときには既に一緒に行動をしていた。確かこの2日が二人のホテルのチェックアウト日だったように記憶する。1階はショウウインドウのようになっていた。店は入っていない気配であった。屋上の部屋にはベッド2つ、テレビひとつ、冷蔵庫。キッチン、テーブル、いす、ソファー、開かれたかばん、スライヤー、ナイフ、たまねぎ、しょうゆ、チリソース、1.5リットル飲料水、衣類、日本語の雑誌、PEACE ON (NGO)のバッジ等が転がっていた。生活臭にあふれ長期取材に出ている気配なし。鍵がかかっていたようであるが日本人の一人がいじるととびらがあいて中に入ることができた。電気もつく。便所はすぐ隣に別室である。水は出た。交差点にあるので見晴らしよし。カメラは見当たらなかった。二人から聞いた話の記憶では1ヶ月170ドルくらいだったように思う。安田氏と渡辺氏は当初同じホテルに宿泊しており、そこで家賃をシェアした方が安く付くということで意気投合したのではないだろうか。
(この記事は渡部陽一の原稿、及び東京で聞き取ったものを板倉が書き起こしました)
■4月17日
日本人3人が本日、イラクを出国した。武装勢力による一週間の拘束を耐え無事に解放、イラクの隣国のひとつであるアラブ首長国連邦に向かった。3人の解放の喜びのニュースに酔いしれるも、未だ拘束されている日本人男性二人の情報はバグダッドにおいても入ってこない。現地のニュースでも行方不明者として報じている。こちらでも新たな情報は殆ど入ってこず、バグダッド市内に残り取材を続ける記者からも「何を書けばいいんだ」という声が聞こえてくる。
外国人拘束人質事件が頻発している背景には武装組織側にとってコストもリスクもかからず爆破活動よりもより効果的に世界世論を動かせることが挙げられる。自分たちの存在感もアピールできる。一石二鳥というわけだ。
日本のマスメディアも撤退を始めているが、一方で日本を含めた各国の記者が再びイラクに入国している。多くの記者は拉致事件の教訓を踏まえて飛行機でアンマンから入ってくるのだが、4日前には日本人のフリージャーナリストが車を使い陸路入国した、という情報も入って来ている。陸路の危険性は、すでに物価に跳ね返っておりアンマンーバグダッド間の車のチャーターは以前150ドルから200ドル程度であったものが、現在は最低で250ドル、中には400ドルという値を付ける業者まであるようだ。それでもタクシードライバーたちは頻繁にアンマンとの間を行き来しており、「第3」の拉致事件はいつ発生してもおかしくは無い状況だ。
現在、フリーの姿は数少ないも通信社・新聞社・テレビクルーと世界各国からこの歴史の動いている瞬間を報じようとアンマンから飛び込んでくる。イラク国内に滞在し続けるジャーナリストは現地滞在組と撤退組に二分された。誰しもが現場に身を置くことの重要性をよくわかっている。そして取材対象よりも安全を重視することが更なる取材を続けるための鉄則であると認識している。
取材する側も取材される側も究極の選択を迫られるのがいまのイラクかもしれない。イラクの安定が訪れることを想像できる者はここにはいない。
■4月18日「イラク国内を統治するものは自分たちで判断する」
日本人男性2人が解放された。これで日本人全員の身柄が無事に確保されることになった。
イラク国内でもこの二人の解放は喜ばしき結果としてトップニュースで報じられている。二人の解放後の日本大使館入りを追いかけた。現地時間12時58分、黒色のBMWの後部座席に乗った二人の表情は神妙でありそして元気そうであった。コメントでも非常に組織側から好待遇を受けたと述べている。二人に添えられた武装組織からの伝言は「日本人は友達である、友達を傷つけたくない。自衛隊の撤退を望む」というものであった。拘束時間のなかで武装組織の要求を直接体感し情報を得ることができた二人からはいまだ繰り広げられる激戦を耐えるファルージャ市民の声が聞こえてくる。今のファルージャの状態を見てくれ、ジハード(聖戦)を行うしかない。自分たちの土地が好き勝手に部外者に荒らされているのだから・・・。
日本人5人の解放がこの先のイラク情勢に影響を与える可能性は強い。外国人人質作戦が展開されその影響は世界を揺さぶり、実際に殺害されている外国人も増え続けている。こうして日本人が無事に解放されていることはイラク人の考え方というものが見えてきている。イラク国内を統治するものは自分たちで判断する、部外者の統治は必要としていない、宗教と歴史がこの地には根づいている。今回の日本人拘束解放の流れの中で何よりも印象に残っている言葉があった。それは解放の指揮を取ったイラクイスラム聖職者協会のクベイシ氏の発言だ。「日本の人たちは人質が解放されることを望んでいないように感じた。」というものだ。イラク人から見た日本の不思議さが如実に現れている意見であった。この先更なる拘束事件は続くと思われる。イラクの混乱は続く。
■4月19日
日本人5人全員無事に解放された。3人はすでに日本に到着している。イラク日本人拘束事件に幕が閉じられた。4月にはいってからイラク国内はまさに激動であった。イスラム教シーア指導者ムクタダサデル氏の持つアルマハディー軍の蜂起、ムクタダ
サデル氏の外国駐留軍との武装闘争宣言、バグダッドサデルシティー内の米軍とシーア派市民との銃撃戦、バグダッド西部ファルージャにおける米軍によるイラク人600人以上の大虐殺事件、自衛隊の駐留するサマワにおける迫撃砲着弾事件やサマワ近
辺の治安の悪化、そして連続する外国人拘束人質拘束作戦、その中で日本人5人が人質となり怪我なく釈放、、、。イラク戦争、バグダッド陥落1周年を迎えたイラク情勢は戦場であった。現地に滞在する外国人ジャーナリストたちも現地滞在組と脱出組に分かれた。私自身も19日にバグダッドを離れる。第2のベトナム化が叫ばれ、混乱を増すイラクに解決の糸口はまったく見えない。イラク復興支援という大義がイラク破壊支援活動に変わってしまった。日本人5人が解放されたことで日本側からのイラクへの注目も一気にさめてきている。
誰しもがバグダッド陥落一周年にはイラクの状況がよくなっいると楽観視していた。連日続く迫撃攻撃や銃撃音、膨大な数の死亡者、イラク国民の怒りが聞こえてくる。サダムがいなくなり、米軍をはじめとする外国駐留軍がやってきた。そして次々と家族が殺された。それを助けるものがなく、自ら武器を手にすることしか現状打破できる方法はないことを彼らは悟った。そしていわゆる第二次イラク戦争が勃発してしまった。イラク戦争2周年を迎えるときイラクという国が存在しているのかさえわからなくなってきている。