一つの「時代」が終わった。2006年12月30日午前6時5分。イラクの元大統領が死刑を執行された。(CNN報道)
3年前、私たちがそのニュースをキャッチしたのは渡部陽一カメラマン(ASIANEWS特約ジャーナリスト)から入った一本の電話だった。バグダッド取材を続けていた渡部カメラマンは現地でラジオ速報を耳に、ASIANEWSへ一報。 サダム拘束のニュースを日本に伝えた。
逮捕直後の電話リポート拘束時の緊急電話リポート(40秒)
バグダッド市内の治安が急速に悪化した直後の電話リポート。拘束後の緊急電話リポート(2分25秒)
サダム・フセイン元大統領死刑執行 渡部陽一(ASIANEWS特約フォト・ジャーナリスト)
サダムフセイン元大統領の死刑が執行された。伝説の独裁者がこれでまた一人、歴史の一幕から姿を消した。 フセイン元大統領で印象に残っているのは、03年12月14日、元大統領の故郷ティクリート郊外で穴倉に潜んでいたところを米軍兵士に力ずくで引きずり出された事件がある。 当時取材で直接現場に赴きその穴倉をのぞいたとき、幅わずか2m、高さ1mほどの空間にイラクの最高指導者が何ヶ月も潜んでいた現実に驚愕したものであった。
もともと私がイラク取材に深く入りこんでいくきっかけになったのは02年にフセイン元大統領が主催する世界国際報道写真展に日本人報道カメラマンとして招待されたいきさつがある。
当時イラクに入ること自体も初めてで、ましてサダムフセイン大統領が招待状を送ってきたという、カメラマンにとって名誉極まりない恩恵にすっかり心が魅せられてしまっていた。 それ以来何かとイラクを訪れることになったのであるが、フセイン独裁全盛時代は正直今のイラク情勢から考えると、 独裁政権と非難されながらもイラク国民や国内状況は非常に安定したものであった。
秘密警察という公権力が幅を利かせていたが、日常的に人が殺されたり、拉致されることは少なかった。 国全体に自信と誇りがみなぎったまさに”アラブの雄”という趣であった。 イラクで流通しているイラクディナールなどは世界最強の通貨として、日本に対して3倍もの貨幣価値を持っていた。
国民の大統領に対する思いにも注目していた。フセインの誕生日などは国民総出で故郷ティクリートに押しかけ町が国民で埋め尽くされる、 まさに作られた祭典と世界中からののしられていたのであるが、現場で市民たちの振る舞いや表情を見ていると、強制的にやらされているのは当然としても、 決していやいやという空気がなくそれなりに大統領に敬意を払っていることを肌で感じた。 非常に人間味にあふれているフセインの姿が取材の中で見えてきたことにハッとさせられたものである。
そしてイラク国民が非常に親日的であったのも、フセイン時代に作りあげられた日本との経済外交が功を奏していた賜物であろう。 フセイン自身もサマワに自衛隊が派遣されたことにはショックであったことと思う。この先、無法地帯となっているイラクでサダムフセインという一部のイラク人にとっての現人神が姿を消したことは更なる血を流すことになる。
イラク市民と電話で話してみると決まって「今の状況よりはフセイン時代のほうが俄然よかった、自分たちは戦争になれているのでなく、 子供が安心して学校に通学できる生活を求めているだけなのだ、それが出来たのがフセイン時代だった。」と語る。 イラク国民にとってサダムフセインという男は悪の権化だけでなく、同じイラク人でイスラム教徒という強い絆で繋がっていたのかもしれない。(2006年12月30日)
イラク国内全土の小学校で使われていたフセイン大統領教科書。当時は必ずフセインの肖像画が記されていた。
フセインの息子、ウダイフセインの高級車倉庫には100台に及ぶ高級車が集められていた。全てが燃やされ略奪されてたいた。
03年12月14日、フセイン拘束の速報が流れたあと、バグダッド市内ではフセイン支持派による爆破テロが激化した。
イラク国内で流通していたイラクディナールにはフセイン大統領の似顔絵が記されていた。
<2003年12月14日配信記事>
前半は後日届いたテキスト版日記です
フセイン元大統領拘束、歴史が動いた。このニュースはイラク国内どころか世界に衝撃ニュースとして配信された。フセインが捕まった、フセインが捕まった、口から出てくることは誰しもこの同じせりふのみであった。日本へのテレビ中継がスタートした。この日から30時間ほど中継の忙しさに追われることになるとは想像できなかった。
(ここからは電話収録したものをテキストに起したものです)
We Got Him12月14日
午後1時、バグダット市内にある新聞社を取材中、速報がはいってきました。 サダムフセイン元大統領拘束、そのニュースを聞き私は即、街中の取材に入りました。
市民たちがどのような反応を示しているのか、それをカメラに収めるためにガイドと一緒に街中に出ました。市民たちはテレビ、ラジオをくいいるように見たり聞いたりし、動揺を隠せない状況です。
信じられない、これはプロパガンダじゃないのかまたアメリカの得意のがせネタじゃないのかというような半信半疑のおもいでしたけれど、その1発目報道の1時のあとの3時、CPA側からWE GOT ITというWE GOT HIMという報告があり、イラク市民は一気に歓声の渦にまきこまれました。 喜んでいる反面泣き崩れている人もいます。 CPAの記者会見の記者団の中にも泣いている人がいました。
元大統領拘束ということで私はそのまま日本のテレビ局、さらには雑誌、ラジオの中継のほうに入ります。1日24時間体制で睡眠をとらずに中継中継中継、電話、原稿、中継、 取材、インタビューとまるで開戦中をむかえるようなそれだけ緊迫したような忙しい一日でした。 ただ睡眠をとらなくてもこうした世界の歯車が動き出した瞬間のこの現場に入れたことを2年間ずっとバグダット取材を続けていて現場に入れたことを嬉しく思っています。この先のイラクの動向をどうなるかさらに見つめていきたいと思います。
イラク市民は フセイン元大統領が命を落とさなかったということを非常に悲しんでいる。12月15日
徹夜でフセイン元大統領拘束ニュースを日本に中継する。パレスチナホテルの中継ポイントにたち一人話し続けた。睡眠を取ることなどあまりの 興奮で気にもかからない。歴史が動いた瞬間に現地に入れたことが嬉しかった。フセイン元大統領拘束でバグダッド市内は爆破事件のラッシュとなった。
サダムフセイン元大統領が拘束され、1日がたちました。 昨日の大騒ぎ、市民たちが銃を持ち出し空に乱射する、祝砲、祝いを祝っていたんですけれども1日あけてからはだいぶ町は落ち着きを取り戻しています。 人が集まる場所、市場や警察署や、CPAのほうはかなり激しいひとのやりとり、デモがおこなわれているんですけども市民生活は普段どおりです。
元大統領が拘束された、喜んでいる人がほとんどなんですけども、悲しんでいる人もそれなりにいます。 もとフセイン支持派の人たち、たとえば中級階級よりも上の人たち、元大統領から恩恵を受けていた人たち、バース党員、さらにタクシー運転手にいたるまでかなり、支持者が多いなという実感です。
元大統領が拘束され、輸送されている米軍に無抵抗で拘留されたということ。イラク市民は フセイン元大統領が命を落とさなかったということを非常に悲しんでいます。 私自身も元大統領拘束されたことを1日たって改めてかみしめてます。 未だにまだ半信半疑の部分もなんとなしに拭い去れない思いです。
フセインの生まれた町でフセインが捕まった。やはり故郷は恋しい。元大統領といえどやはり同じ人間なのだ12月16日
ティクリートに入った。フセインの捕まった村と洞穴を取材するためだ。早朝から死の国道一号線を150KMで走り抜ける。日本大使館員殺害現場にも入った。人がいない静かな幹線道路上での事件であった。悲しい事件だ。
フセインの村に入るも米軍の検問に引っかかり入り口での取材で終わる。テクリートのCPA本部に取材申請を出しに足を運んだ。物々しい警戒態勢がしかれている。確かにバグダッドと違ういやな空気が流れている。市民の目が冷たく映る。フセインの生まれた町でフセインが捕まった。やはり故郷は恋しい。元大統領といえどやはり同じ人間なのだと納得した。
本日ティクリートに向かいました。ティクリートのほうでサダムフセインが拘束されている。 アルドワ地区、アルDOR地区、取材に入ったんですけどもそこで米軍の検問にひっかかりました。米軍の言い分としてはCPAティクリート本部から取材許可書、もしくはコーディネートをつれてきて初めて君たちを入れることができるという話です。
私は即ティクリートに向かいました。本日ティクリートでティクリート市民と米軍との激しい銃撃戦があり、ティクリートの町に入るまでが検問で2時間の待ちです。 橋をわたってティクリートに入るとCPAがすぐあります。そのCPA本部でロイター通信とサンデータイムスのニュース記者と3人そろってフセイン元大統領のもぐっていた穴倉取材の申請をだしました。 するとCPAの広報担当の方はこういいます。 今プレス関係者が殺到している、君たちだけを簡単に入れることは出来ない、今日と明日は一切うけつけないのであさって合同で取材チームをつくるからそのとききてください。 その代わりメールアドレスをおしえるのでそこに申請書と自分の名前、記者章、持ってる機材、同行者の名前を書いてください。
そのメールを送り私はティクリートをあとにしました。帰りにかつての日本大使館の二人が殺害された場所、そのエリアを取材に入り、なんともいえない周り、砂漠だらけなんですけれども、人気のない高速道路、不思議な人気のないなんともいえない思いにさせられました。 今もこうして電話の横で銃撃戦がやられてます。
<2004年7月3日配信記事>
連合軍暫定当局(CPA)は6月28日、突如として主権移譲を前倒しした。主権移譲をこの目で見たいとイラクに向かった渡部にも全く「寝耳に水」。翌29日には戒厳令が敷かれるとの情報もある中、無事にバグダッド入りを果たす。毎日の様に事件が伝えられるイラク。勿論気が抜けないのが大前提ではあるが、それでも渡部から我々への第一報は「4月の方が雰囲気は悪い」、と言うものだった。 現在の治安状況は?日本への市民感情は?政権移譲によりイラクはどこへ向かおうとしているのか?渾身のリポートを今回もお届けする。
■フセイン元大統領予審
「我々が忘れることはない」カリード(48)タクシードライバー
イラクメディアで予審を食い入るように見るイラク市民
フセイン元大統領の予審が始まった。かつての独裁政権も完全に崩壊したものの今だイラク市民にとって"サダムフセイン"という言葉は恐怖の象徴となっている。
現地のメディアでも一面でフセイン予審を取り上げ、イラク市民は食い入るように目を通している。タクシー運転手のカリード・アハメッド氏(48)は「フセインの審議をイラク国内でやることは当然だ。フセインによってどれほどの市民が命を落としてきたか、我々が忘れることはない。公開審議になれば間違いなく法廷で罵声を浴びせてやるよ。」と語る。 市内は至って普段どおり。
バグダッド市内で警備にあたるアメリカ軍兵士
フセインの影が再びバグダッド市内に駆け巡るも、街中は混乱を極めた今年の4月に比べると不気味な静けさを保っている。突発的な米軍と武装勢力との衝突があるも、市内はいたって普段のバグダッドの風景である。マーケットでは買い物に明け暮れる人でごった返し、道はタクシーの渋滞ができるほどである。
物価の上昇もなく1ドルが1480イラクディナール前後で取引されている。真夏を迎えつつあるイラクでは気温が40度を軽く超え、午後にもなれば市民は自宅に帰り昼寝をする日課となっている。武装勢力の動きがバグダッド郊外では活発化しており、イラク人でさえも市内から外への長距離移動は控えているのが現状である。
(日本時間2004年7月2日午前0時 バグダッド発)