空爆の下で



イラク戦争中、ASIANEWSの久保田弘信記者(当社取締役写真取材担当)はバグダッドに留まり日本のメディアに向けて空爆状況をリポートしました。
テレビ向けのリポートと共に、久保田記者はインターネットを通じて「イラク日記」を発表。バグダッドからASIANEWS本社へ向けては電話によるリポートを送稿しています。 ここでは「イラク日記」「電話リポート」を時系列で再編集しました。テレビで行った電話リポートとはまた異なる現地記者の肉声をお聞きください。



久保田記者が日本を出発したのは2003年2月16日。開戦のおよそ1ヶ月前でした。

2003年2月16日の「イラク日記」から
今日は朝からついていなかった。新宿から成田エクスプレスに乗ろうとするが、乗継ぎが悪く一時間位 待たなければならない。これじゃ間に合わない。東京駅からならあるというので、重い荷物を持って中央 線に乗る。しかし東京からの成田エクスプレスは満席で、立って乗らなければならない。あーあ。ついて ないな。まあ、日本でつきを使い果たすよりいいか。と思い勝手に納得する。


人々の記憶が薄れるのは早いもので、9.11以降あれほど空いていた成田空港もいまや込み合って いる。
空港には沢山のマスコミ関係者が来ていた。僕自身は関係ないと思っていたが、何人かにインタビュ ーを受けてしまった。母親が見たら驚くだろうな。と思う。長年避けてきたアエロフロート・・11:12take off.


昨日、遅くまでイラク大使館にいて寝不足なためあっという間に眠りについてしまった。上空から最後の 日本を満喫しようと思っていたのに、ふと気づくと日本海上空を飛んでいた。これがラストフライトにならな いことを祈る。

数時間走りバスはイラクとの国境へ。
さて第一関門。前回はここでのチェックで6時間ちかくかかったと 聞いている。しかし成田でつきを使わなかったのが良かったのか、あっという間にチェックが終わりイラク へと入国。何時間かかるか賭をして僕は勝ってしまった。一番遠い時間を言った毎日新聞のGさんに飯 を奢ってもらうことになった。


この時の記者が後にアンマンの空港で「お土産」として持ち帰ろうとしたクラスター爆弾を爆破させてしまいます。



バグダットに着いたのは夜の10時を回っていた。日本を出て40時間以上が経過していた。
バグダット は僕が想像していたより都会。僕が泊まるホテルも近代的。普通なら初日の夜なんて外出できな いのだが、前回来ていた人たちとジュースを買いに行く。戦争直前なのにあまりの治安の良さにビックリ する。


初日のイラクのイメージは治安が良いの一言につきる。アフガニスタンでもそうだがやはりニュースを 見ているだけでは分からないことが多いと実感した。


久保田記者は「人間の盾」としてイラクに入国した日本人に同行取材をしました。 フセイン政権は徐々に浸透する「イラク攻撃」を国際世論によって打破するためこうした人々がイラクに入国することを歓迎します。 政権主催のパーティー会場に久保田は入りました。



2003 年2月19日「イラク日記」から
NASYO主催のオープニングパーティーに出席する。
国際会議場に各国から集まった人たちとイラクの 人たちが集まった。演説で始まり、途中音楽と子供達によるダンスが見られた。折しも北朝鮮のニュース が日本でもてはやされた後なので、子供達のダンスがいかにも北朝鮮のダンスのようで嫌な気がしてし まった。


イラク側としては色々な事を訴えたかったのだろうが、子供を使ったのは逆効果だと思う。おそら く日本のテレビでもこのオープニングパーティーの様子が流れるだろうが、殆どの人が北朝鮮をイメージ してしまうと思う。


日本から来た人たちの中に右翼と左翼ボス木村氏と塩見氏がいた。二人で仲良く笑顔で話すシーン は日本では見られない気がする。イラクの戦争をストップするために日本が平和になるというような図式 が見られた。しかしデモ行進のとき同じ日本人同士が主義主張の違いでいがみ合っているのを見ると、 あなた達はここに何をしに来たの?と思う。日本国内で抱える些細な主義主張さえ解決できない人が「戦 争反対!」と叫んでも説得力のかけらもない。


イラク政府は人間の盾に対して積極的に国内を案内します。 国内では湾岸戦争の傷跡がまだ癒えぬまま新たな戦争に突入する、というアピールです。



子供の描く戦争の絵は 2003年2月21日
今日は 昼まで寝た。午後NASYOの招待でバビロンへ行く。
到着してびっくり。沢山のイラクの子供達 が戦争反対と叫んでいた。フム、タダの観光にはならなかったが、近くで絵を描いていた。子供の描く戦 争の絵はなかなか厳しいものがあるが、記念にもらっていくことにする。バビロン自体はすごい遺跡なの だろうが、ただ広いだけで、あまり実感がなかった。

生まれて初めて空襲警報 2003年2月22日
朝6時半に起きる。今日はバスラへの移動日なので早起き。
しかし・・ここはやはりイラク。現在すでに 10時半をまわっている。今日はもうバスラへの移動で終わってしまいそうだ。11:11出発。
途中、遺跡を一つ見てバスラに向かいひたすら走る。バスラに着いたのは夜の7時過ぎ。みんなと食 事をしに行き、帰ってくると空襲警報が。生まれて初めて聞く空襲警報だった。
夜、空襲警報二回。


せめてウランは 2003年2月24日
夜の空襲警報にもめげずにたっぷりと眠り、国境に向かう・・
ところが今日もなかなか出発できない。子 供の墓地へ。
今日また小さな命が一つ消えた。湾岸戦争から12年が経過しているのに、未だにバスラ の人達が苦しみ続けている。劣化ウランの影響は今後何十年も続くだろう。しかも今、過去の反省がい かされず、再び同じ過ちを繰り返そうとしている。
僕たち日本人も含め、世界各国から戦争を止めたいと 思う人がイラクに集まっている。国際社会の声はアメリカに届くのだろうか?
昼食時にバスラの女子高生と仲良くなった。彼女達はピクニックに来ていた。

複雑な立場 2003 年2月25日
今日も朝からトラブル続き。明日帰る人たちもいるので、最後にイラクの学校と病院を訪れる予定だっ たが、様々な理由で訪れる事ができなかった。現地でのマークが厳しくなりつつある。タクシーでホテルに 帰ることさえ困難だった。


イラク政府の期待、また市民の願いとは裏腹にアメリカ・イギリスを主体とする「連合国軍」は 着実に戦争への準備を進めていきます。そしてイラク国内にいる日本人への退避勧告も始まりました。



2003年2月28日
朝、ホテルのフロントで大使館からのお手紙を受け取った。
なんかとっても嬉しかった。今回イラクに来ている日本人の人たちには、できるだけ早く帰国するように と実家にまで連絡が入っているそうだが、なぜか唯一、ぼくの実家にだけは連絡が入っていない。きょう になってようやく大使館の人から退避勧告がもらえた。ホテルのスタッフがしきりに「いつ帰るのか」と質 問してくる。最近、町の空気も緊張感が漂ってきたし、そろそろみんな不安が出始めたようだ。


イラクの人にしてみれば、人間の盾としてとどまっている人たちがイラクを去ったらそれは開戦の合図 ということになるのだろう。
いっしょにいた常岡氏が「帰らないよ」と答えると、ホテルの人はとてもうれしそ うに微笑んだ。


この時に手紙に署名されていたのが在イラク日本大使館の奥克彦参事官(当時)と井ノ上正盛3等書記官(当時)の名前でした。 このおよそ9ヵ月後の11月29日に二人はティクリート付近で何者かに狙撃され亡くなりました。 そして3月。しかしバグダッド市内では普段と変わらぬ市民の生活が営まれていました。



焼きたてのパンの味 2003年3月5日
日本を出る時、あまりに忙しくて床屋に行く暇がなかったので、まちで見つけた床屋へ行く。
なぜか床 屋の名前はラコステ。 カットのみ1500ディナール。
1$=2300ディナール。海外で床屋に行くと、とん でもないヘアースタイルにされることがしばしばあるが、(インドではあれほど言ったのに、はやりの刈り 上げにされた)イラクの床屋さんはちゃんと要望を聞いてくれ、まともに仕上げてくれた。かみそりを使わ れた時は、あーエイズが恐いと思ったが手遅れだった。


髪の毛を切ってさっぱりした気分で歩いていると、パンやさんを見つけた。
外から見ていると中に入っ て写真を撮っていけと勧められたので、お言葉に甘えて中に入れてもらった。とてもいい匂いだったの で、焼きたてのパンを買うことにし、値段を聞くとえらく安い。2個買い。
持っている最小紙幣の250ディナ ールを払おうとすると「いいよ、いいよ」と言われ、タダでパンをもらってしまった。焼きたてのパンはとても 美味しく、その足で近くのチャイ屋さんに入り、チャイを飲みながらパンを食べた。


2003年3月7日
テレビ局のYさんの助言に従い、戦争が始まってしまった時のために食料を買い出しに行く。
空爆によ って食料が手に入らなくなる可能性は低いが、その後のイラク人の混乱で外国人が外を出歩けなくなる 可能性は高いようだ。ところが、今日は金曜日。町の店はことごとく閉まっている。
タクシードライバーに 頼んでスーパーマーケットに連れて行ってもらう。生まれて初めてカートを使って買い物をする。ミネラル ウォーターや缶詰、ジュースなどを買う。しこたま買い込んでレジに行くと5万750ディナールだった。25 0ディナールの100枚の束を二つと250ディナール札3枚を渡す。レジの人は100枚の札束を数えもし なかった。戦争の危機を感じているのか、僕以外にも缶詰などを沢山買い込んでいる人が大勢いた。


やがて日本メディアの退避も始まります。



2003年3月8日
朝一番 TBSがイラクを出る。8時に出ると聞いていたので見送ろうと思っていたのだが、7時に起きて しまい、もう少し寝ようと思ったら昼になっていた。VCDを受け取りたかったのだが。人質生活とは退屈なものだ。本当ならカメラをもって町中に出かけたい。ホテルはいいし、生活に不満 はないのだが、どうも落ち着かない。他のジャーナリストたちがID片手に取材に出ていくのがうらやまし い。

TBSは居残ってくれることが価値だと言ってくれたが、お金にならなくてもいいから、もっと取材したい。 毎日新聞のGさんにケーブルを渡しに行くためにタクシーをつかまえ、サフィールホテルへ行ってく れと頼んだ。OKと言ったものの、ドライバーは方向音痴で何度も同じ道を通り、30分以上かけてホテル に着いた。Gさんはお出かけ中だったので、フロントにケーブルとメッセージを残してきた。

もう一つの隠れ場、ホテルに向かう。タクシーを止めたけど、ホテルのカードを忘れてきてしまった ので、僕が道を指示した。なんとかホテルに着いて、1000ディナールを払うと「多すぎるよ!」と初めて 言われた。あ、そう?と言って少なくするのもなんだと思い。「いいですよ、ありがとう」と言ってそのまま渡 した。

イラクの良いところは、食事にしてもタクシーにしてもかなりの確率で正直だということ。特にタクシ ーはぼられるということが全くない。この先もこのままでいてほしいと思う。 両替をする1$=2460ディナール。何故かドルの価値があがった。ん?ディナールの価値が落ちた。 わずかの差だが、僕には得だ。帰ってきて、ホテルの近くの靴磨きの少年と少しだけ仲良くなっ た。



2003年3月9日

ホームページを意識しすぎるからイラク日記が書きづらいのが分かった。
正直にホームページに書け ない事があまりに多すぎる。一度、イラク日記を書き、その中からホームページ用の原稿をピックアップ する事にしようと思う。さて、今思えば前半にもっとあちこち行っておけばよ かった。今はちょっと出歩くのも周りに神経を使う。とりわけ最近増えてきた兵隊さんに見つめられたとき は、笑顔で返そうか、無視すべきかとても迷う。


昨日の夜からインターネットの調子が良くない。なんだかプロバイダーに料金を払わなければならない などとモハメッドが言っていた。昨晩はネットしながらリチャード(US radio)とモハメッドとウイスキーを飲ん だ。部屋に帰ってテレビをつけるとシックスセンスが放映されていたが、これを見ると恐くて眠れなくなりそ うだったので、すぐに消してベッドに入る。僕の趣味、ダブルベッドに斜めに寝ること。贅沢感一杯!

日記を書いているとルームサービスがきた。ルームサービスだよ!これまで海外で殆ど経験したこと がないよ。それをイラクで経験できるとは○○さんありがとう。Yさんが教えてくれたチャイニーズフライド ライスはとても美味しい。
今値段をチェックしたら、1100ディナールだった。町中で食事するより安いくらい。ではいただきます。(勿論、自分で作ったみそ汁つき)今日は一日中インターネットがダウンしている。 メールがチェックできないと状況がわからないので・・・


一方イラク国内の反戦活動もますます活発になります。



2003 年3月10日
AM1:15僕はベッドの中で浅い眠りについていた。スパーンと言う音が響き、近所の犬が一斉に鳴き出 した。何の音かは分からないが、とりあえず空爆の音ではないらしい。
目が覚めてしまったので、テレビを つけてみるとなんと戦争映画。イヤになってすぐ消したものの眠れそうになくイラク日記を書き始める。


本当に戦争は起こるのだろうか?政治や国際社会の動きを見れば起きるのが当たり前なのだろうが、 こうしてイラクにいると、このまま反戦運動が高まって戦争が回避されそうな気になってくる。街中には兵 隊が増え、緊張感が増してはいるものの、市民生活は普段と変わりなさそう。こんな日常の風景が一気 に戦争に変わるとは想像しづらい。実際、各国での反戦運動や、人間の盾の動きが戦争を遅らせている のは確かだと思う。


2003 年3月11日
2003年3月11日、教会で反戦集会があった。 バグダットには以外に多くの教会が存在する。イラクに住むクリスチャンの人たちは戦争のドタバタでク リスチャンが迫害されることを恐れているという。


2003 年3月12日
夜9時過ぎ、街の店が閉まり始めた頃、裏通りのチャイ屋はほぼ満席状態。殆どの人がチャイを飲み ながらゲームをしている。この場所にいると、戦争の気配を一切感じられない。


2003年3月13日「時差」
日本とイラクの時差6時間。この6時間というのが結構やっかいだ。日本で仕事が始まり、そろそろとい う11時に電話がかかってくると、イラクではまだ午前五時。眠いつーの。ちょっと気を遣って日本の昼食 前12時に電話をもらってもまだ六時。こちらから一日が終わって8時くらいに電話をかけようとすると日 本ではすでに午前2時。一ヶ月経ってもこの時差には慣れない。


ところで、最近日本のそうそうたるジャーナリストたちがイラクに来ている。みんなイラク以外でも活躍し ているすごい人ばかり。「ホテルの人がロシア人というのはよく分からない」ともらしていた。それぞれが 他のジャーナリストの批判をしているそうだ。「その点日本人はいいねー!」と言ってくれた。確かに日本 人同士は仲がよい。多分。僕はそう思う。特にフリーランスの人たちはお互いを認めあっている気がす る。お互いに情報を独占しようなんてせこさがない。なんて脳天気に思っているのは僕だけだろうか。


海外政府機関や日本のメディアの退避、反戦運動の活発とイラク国内は緊迫の度を深めていきます。 しかしその一方で市民はぎりぎりまで日常生活を営みます。



2003年3月14日「ビー玉」
久しぶりに街に一人で出かける。ところが今日は金曜日でお店がことごとく閉まっている。天気もいい ので、ぶらぶらと下町を歩く。路地裏でビー玉遊びをしている子供を見つけ。写真を撮らせてもらい、しば し一緒に遊ぶ。ふと気づくと撮影が目的だったのか、一緒に遊ぶのが目的だったか分からなくなるくらい 子供と遊んでしまった。子供の遊びは万国共通なものが多い。子供達の笑顔を見れば見るほど、戦争が 起こらなければいいのになーと思う。


2003年3月15日「ゲームセンター」
コーヒーを飲みながらイラク日記を書く。インスタントコーヒーを飲もうとしたが、僕はお子様で、砂糖が ないとイヤだ。先日常岡さんとスーパーで買ったものは、砂糖のふりをした氷酢酸?のようなものだった。 あまりの不気味な味に本当にコーヒーを吹き出してしまった。それ以来コーヒーを飲んでいなかったが、 今日近くのお店でちゃんと「お砂糖下さい」と言って買ってきた。それでも不安な僕は少し舐めてみて、甘いのを確認してからコーヒーに入れた。そんな苦労の後のコーヒーをすりながら日記を書いている。


街を歩いていて、プレイステーション2の看板を見た。中を覗くと若者が一心不乱にゲームに勤しんで いる。何度かゲームセンターの前を通るが、中に入る勇気がなかった。そしてようやくチャンスが訪れた。 今日も中を覗きながら通りすぎようとすると、中から若者がおいでよ!と言う感じで手招きしてくれた。待 っていましたとばかりにお邪魔する。中には9台ほどのモニターがあり満席状態だった。イラクで最新の プレステもゲームができるのは驚きだった。


今日は大規模な反戦デモがあったが、日本との連絡に忙殺されて取材に行くことができなかった。テ レビで生中継をみていると、ジャーナリストの渡辺さんが写っていた。


一部の上級階級、つまりイラク政府関連職員やバース党員などには国際情勢は確実に伝えられていましたが、多くの市民の心の中では 本当に戦争するのかと言う疑問もあったようです。しかしついに戦争の影が市民生活にまで影響を及ぼしてきます。



2003年3月16日
ついに動き始めた。
国連の査察団がイラクから退去したというニュースが入ってきて、今まで本当に戦争が起こるのだろう か、という雰囲気だったのが、一気に戦争ムードになってきた。 午後、常岡さんと少し遅い昼食をとりに出かけると、ガソリンスタンドからはみ出すように車の列があっ た。
昨日、到着したジャミーラさんから国境付近はすでに混雑し始めているときいていたが、バグダットもつ いにと言う感じだ。ジャーミーラさんと日本人でミーティングがおこなわれた。こちらに来る前はジャーミー ラさんは何とか反戦運動を続けて戦争回避を目指すつもりのようだったが、突然動き始めた戦争への流 れをくい止めるのは難しいと判断し、日本人の帰国を促した。
午後9時半4人の日本人がバグダットを後にする。安田君、神崎君、この二人は発電所にずーっと行っ ていて、村岸さんの次に活躍?した二人だ。神崎君は「何もできずに帰国するのが悔しい、逃げるようで 申し訳ない」と涙ながらに話していた。安田君もこの一ヶ月かなり頑張ったと思う。別れ際、僕と抱き合い 涙していた。送り出す側の僕としては、絶対泣いちゃだめだと思い、精一杯我慢した。
昨日ジャミーラさんと一緒にバグダット入りした秋貞さんと若林さんはとんぼ返りでダマスカスに向かう ことになってしまった。特に秋貞さんは生まれて初めての海外がシリア経由のイラク。しかもイラクの滞在 時間は17時間という慌ただしいものだった。秋貞さんは僕が頼んだ目薬、ソックス、日本の雑誌、小説を 持ってきてくれた。果たしてこの先本を読んでいる暇があるだろうか?


2003年3月18日
今日になってバグダット市内の9割の店が閉まってしまった。この雑貨屋さんも爆風に備え、ガラスをテ ープで固定して、店を閉めていた。スーパーマーケットにミネラルウオーターはなく、今日以降入ってくる 予定もないそうだ。殆どが外国人が買い占めたと思われる。


子供達が遊んでいた、彼らは48時間後にミサイルが飛んでくることを知っているのだろうか。何事もな いように屈託なく笑い、遊ぶ子供達がいたいけに思えた。


ジャーナリスト達がどんどん出ていき、ついに今日、ホテルの客は僕一人になってしまった。モハメッド が一旦家に帰るけど、今日から毎日ホテルに泊まってやるから、と言ってくれた。僕一人だけのためのホ テル。うーん。


2003年3月19日
昨日は砂嵐。とても強い風が吹き、部屋の中まで砂が舞い込んできた。ホテルに来てから始めて 耳栓を使って寝た。よーく寝たと思ってふと起きたらまだ午前三時だった。アフガニスタン以降神経が過 敏になっている僕としては久しぶりの休息だった。しかし昨日が最初で最後だろう。今日からは空爆の危 険性があるので、耳栓が使えない。一日だけの安息日。

大使館はしつこい。昨晩、僕が眠りについた頃アンマンの大使館から電話があった。
まだ公共の交通機関であるバスが動いていたので乗ってみると半分くらいの乗客はイラクの兵士だっ た。慌ててカメラを隠そうかと思ったら、なんと兵士の方が写真を撮ってくれと頼んできた。みんな信じら れないくらい陽気だった。一人が「衛星を使って日本に送ってくれよ」というようなことを言っていた。(アラ ビア語で)


そしてイラクはついに運命の日を迎えます。



2003年3月20日
AM4:00、48時間の期限がきれ、最後通告が行われる時間。夜は犬の声がうるさくてよく眠れなかっ た。今は4:35。日本に電話すると、最後通告は日本時間の今日 の夕方になるかもしれないとのこと。イラク時間ではお昼ちょっと前だろうか。最初の空爆は深夜に行う のが定石だから、僕の寿命もちーと延びたかな。
朝一番のイラクのテレビで、日本の子供が反戦デモに参加している映像が出ていた。少し動きが遅す ぎたかな、と思う。


AM5:30バグダットで始めての空襲警報!
AM5:40ちー始まったー!誰もいないのに僕は叫んでいた。急いでカメラを持ち、電話を抱え、ベランダ にでる。出た瞬間地上から対空砲火のオレンジ色の光が。そして数秒後、すぐ近くでの着弾音。あまりの 音に「おー近い!」とまた叫んでしまった。その後地上から対空砲火が続く。この数分の間に36発のトマ ホークと2発のバンカーバスターがバグダットに打ち込まれた。


AM8:05三回目の空襲警報がなるが、その後空爆はない。


AM11:00眠い、睡眠不足なのに、朝からもう6回目の電話レポートが終わった。次々に現状を聞かれ ても、電話を持ったままじゃ新しい情報は得られない。東京に話して20分の猶予をもらい、イラク人のイ ンタビューをとってくる英語を話せる人を見つけた運もあるが、たった20分でイラク人からインタビューを 取ってくる僕ってすごい。吸いたくないタバコもちゃんと吸ったし。お茶にも誘われたし。今メールを開けた ら72通。嬉しいけどチェックしきれないかも。


2003年3月20日「報道の裏側」
眠い、このままじゃ空爆じゃなく衰弱で死にそう。午前三時からずーっと日本との電話。食事はおろかト イレに行く事もままならない。
TBSへ電話レポートを送る。空爆される場所イラクに僕がいて、攻撃する艦隊の上にもTBSの記者が いる。なんともおかしな感じがする。一人はミサイルが発射されるのを見送り、もう一人の僕はその着弾 地点でレポートを送る。


ともあれ、最初の空爆はしのいだ。しかしこれからが本番だ。3000発以上のトマホークミサイルをうま くよけられるだろうか?今日はメールの数が130を越した。みなさんお返事しきれませんかもしれませ ん。ごめんなさい。今ももう眠りそう。それから新聞やさんその他のマスコミの方、しばらく電話はご遠慮 下さい。お急ぎの方はアジアニュースの板倉まで。このままじゃ体が持ちません。


容赦ない連合国軍の攻撃。久保田記者はTBSに向けて電話リポートを行っていました。



2003年3月21日
<1回目>
<2回目>

2003年3月22日
空爆から一夜が明けた。とってもしんどい一晩だった。カンボジア以来の恐怖感だった。ベッドに入って も空襲警報が続いていた。もう関係なく眠りにつく。ところがまた空爆が始まる。眠れるような状況じゃな い。空爆は5時間も続き、夜明けにようやく終わる。夜が明けても空爆は小規模ながら続くが、もうかまわ ず眠る事にする。


2003年3月23日
昨日までの空爆がお遊びの様なすさまじい爆撃。空爆が始まってから6時間、未だ空襲警報は解除されない。
ニュース23が終わった後、TBSからB52が空爆に向かったとの連絡を受ける。B52が来る!それは 今までのピンポイント爆撃ではなく、無差別に大量の爆弾が落とされることを意味する。その話を聞いた 後、僕はカンボジア以来、初めて膝が震えた。アフガニスタンでも平気だったのに。始まるのを待つ。向 かってくるのは分かっている。でも今から逃げることはできない。この恐怖をどう表現すればいいだろう。 空襲警報、間髪をおかず、トマホークが降って来る。


近い!爆音、爆風、ホテルのすぐ近くに着弾する。 爆風、砂煙、火薬の匂い。昨日までの空爆がお遊びの様なすさまじい爆撃。ホテル全体が揺れる。腰 全体がひける。ホテルの外に出るのが怖い。もし覗いた瞬間にトマホークが降ってきたら・・・と思うと体が 重くなる。勇気を振り絞って右手にカメラ、左手に衛星携帯を持ってベランダから体を出す。その瞬間、着 弾。思わず「ウ、ウオー」という叫びを上げてしまう。


後はひたすら戦況を実況中継する。TBSが安全なと ころに避難してください、と言う。なぜか僕は最後まで続けます!この非人道的なアメリカの行動を伝えて ください、と言っていた。何度も近くに爆弾が落ちるために叫びながら伏せる。二つ至近距離に落ち、爆 風で椅子から落ちてしまった。一度終わったかと思われる空爆がまた始まった。

上空を飛ぶトマホークの 音が聞こえる。頼むからこの上を通り過ぎてくれ、と祈るだけだ。近代の戦争は相手の顔が見えない戦争 で罪の意識も薄い。あんたが発射したミサイルで何人も何百人も死んでいるんだぞ!と叫びたくなる。


これを書いている途中23時56分、また空爆が始まった。ふと気づくと空爆が収まって、ふと気づくとなぜか 歯を磨いていた。その後顔を洗っていた。僕の意識の中でどうせ死ぬんだったらきれいな体で死にたいと 言う思いがあったのかもしれない。その後。またすさまじい空爆が始まった。5時間後。頭がしびれるよう な感覚になっている。アドレナリンを放出した後の症状だ。これはアフガニスタンでも経験した。

明日はもう無理かもしれないと思う。B52が来ると聴いた瞬間から膝が笑う。B52はピンポイントの攻 撃じゃあないことが分かっている。最初は恐怖感があったが実況を続けると不思議に冷静になる。何人 死んだのか分からない。テレビの向こうで米兵が二人死んだと言っている。頭にくる。冗談じゃないよ、ど んだけこっちが死んでんだ!


チェチェンを経験した、かの常岡氏(久保田と同じホテルにいるジャーナリスト)も「怖かった」といってい た。
ホテルの前をイラク兵が取り囲んでいる。なぜなのかは分からない。革命があるとの情報があるので、 できるだけ兵士に笑顔で手を振る。革命でパニックになったときに何でも銃口を向けて民間人が狙わ れるのが一番怖い。

今日徹底的にやられているからその動きがあるとすれば明日以降だろう。 テレビの向こうでは評論家がアメリカの歴史がどうの、この戦争がどうのとか言っているけど僕はこの 場から言いたかった。

歴史?戦争?関係ねえよ。人殺しだよ。戦争だよ。帰れるものなら帰りたい。出れ るものなら出たい。もう充分働いた気がする。今は何とか生きて帰って日本で僕が体験したことを伝えたい。僕の口から伝えたい。軍事評論家が偉そうに言ってるけど、お前ら戦争を経験したのかと問いたい。 1発1発爆弾が落ちてくる。そんな恐怖も体験したことの無い人に、やるべき戦争だとか言っているやつを 張り倒したい。今それを一番言いたい。

現実を知らぬのに戦争を肯定したり、反対したり、いい加減なこと を言うなと言いたい。この爆撃の「上」でなく「下」にいた者にしか言えない事がある。


2003年3月23日
このところ一日が非常に長い。今日も断続的に空爆が続く。今日の爆撃は着弾点が近い。


15:15 ホテ ルが揺れるほどの2発のミサイルが着弾。その後3発、そのうち1発は市内中心部方向。17時30分疲労が たまったので、ベッドの上で少し休んでいた。ズドーン!ズドーン!・・・4発のミサイルが着弾する。あわ てて飛び起きる。明るいうちのミサイルは初めてだ。これも近い。ガラスが爆風でぎしぎしと音を立てる。


僕の部屋は南向き、これは衛星携帯を使うために必要条件。ところが南側には建物が無いため、直接爆 風が吹き込んでくる。ベッドに寝た僕の足の方向が窓。すぐに電話とカメラを持って外に出る。そこにはイ ラク人の一般市民の姿が・・・。イラクはとても貧富の差が激しい。一目で最下層と分かる夫婦が羊を放 牧させていた。本来なら羊を置いて逃げるべきなのだろうが夫婦は一生懸命爆撃で驚いた羊を誘導す る。幸い4発の後の攻撃は無かった。もう大丈夫と思ったのか、男性が羊を連れて帰り、女性は近くのゴ ミをあさり始めた。昨日は近所の人が僕のホテルのシェルターに避難してきた。この差は何だろう。戦争 を肯定なんて出来ないが、今の政権ではだめなことが肌で感じられる。


19時10分突然、バラバラバラと対 空砲火のあの音が響く。ミサイル攻撃は無いが、上空の爆撃機と地上の戦闘になる。ホテルの西側の上 空から高い線が上空に伸びる。おそらく地対空ミサイルだろう。そして上空で閃光が。当たったのだろう か?ここからは良くわからない。戦闘はおよそ15分で終了。

20時突然ミサイルが一発。次が来るのを身 構えるが、その後攻撃は無い。疲れていく自分が分かる。昨日までなら、緊張して近くに電話とカメラを置 いてスタンバイしていたのだが、突然空腹感を覚え食事をとる。すごい爆風のときでも距離があるのが分 かるようになってきた。

慣れた頃が危ないのだろうけど36時間後にバグダッドで地上戦が始まるとの情報 が入ってきた。いよいよだ。イラク軍が死なばもろとも作戦で生物化学兵器などを使わないことを祈る。ガスとか細菌はいやだなあ。
<1回目:04時30分>
<2回目:18時00分>
<3回目:22時40分>


2003年3月24日
戦況は最終局面を迎えています。政府が焦っています。 昨日、日本人のジャーナリストが二人拘束されたようです。 今朝、このホテルにも政府系の人が来て、部屋を変わるようにとの命令が。今まで使っていた部屋は 戦闘が見れるため反対がわの部屋に移れとの命令だ。ホテルからは一切、写真は撮ってはいけないと。 昨日、常岡さんを含む三人の日本人がパスポートを取り上げられた。このホテルも周りには沢山の兵隊 がいてほとんど監禁状態だ。これ以降テレビに声が出ることが少なくなると思いますがご心配なく。何とか脱出します。


今日は外は強風が吹き荒れている。空爆はなく、これから始まるであろう地上戦の前の最後の静けさ だろうか?
空爆されている時より今の静かなこの時間が恐い。いつでも逃げ出せるように、荷物を整理しようとし たが、大変。日頃のいい加減な性格がこういう時にたたる。


2003年3月26日「日常、非日常、砂嵐」
砂嵐が続く。部屋の中にいても砂が入ってきて気持ち悪かった。単なる砂なら良いのだけど、間違いな く大量の劣化ウランが入っている。今日はついに市場にもミサイルが落とされた。僕はまだ現場を見てい ないけど、手や足がそこら辺りに飛び散っていたそうだ。昨日も空襲警報が何回もでて、夜中も空爆が続 いていた。しかし、距離もありそうだし、大丈夫だと思い寝ていた。


アメリカの空爆はもうピンポイントでは ない。一般市民に沢山の犠牲者が出ている。否応なしに次は僕の順番かと想像してしまう。今日、日本 の首相が「映画じゃないんです。真剣に・・」とコメントしていた。ここへ来て空爆を経験してからもう一度同 じセリフを行って欲しい。所詮日本に伝わる映像は映画のようなものだから。


ジャミーラさんはお母さんのようだ、今日も出がけにご飯を炊いてくれた。日本にいるときより、ジャミー ラさんが健康に気を遣ってくれる。昨日は「久保田さんオレンジを食べなさい。ビタミンを取らなきゃいけませんよ」と言ってくれた。日常と非日常が交錯する。

戦争の恐怖と母のようなジャミーラさんの優しさ。母と 言えば、実の母に連絡をとった。実はイラクに来るとは言っていなかったのだが、これだけテレビに出てし まっては、もうバレているに決まっている。母の第一声は「心配していないからね!頑張りなさい」だった。 我が親ながら感心した。
みなさん頑張ってください。今こそ日本のマスコミが頑張る時です。少しでも真実を、真実に近い事を伝 えてください。


<1回目:13時00分>
<2回目:16時30分>
<3回目:16時45分>

2003年3月27日

2003年3月28日
<1回目:10時30分>
<2回目19時00分>


そして久保田記者はイラクを脱出帰国しました。



2003年4月1日
帰国したのがエープリルフール。いかにも僕らしい。これじゃ帰国したと友人に電話しても嘘だろ!とい われてしまいそう。笑!
日本へ帰ってきた。雨の関空へ。アジアニュースの板倉さんが迎えに来てくれた。アフガニスタンの時 と同じ気持ちになる。ようやく帰ってきたという気持ちと、帰ってきてしまったという気持ち。関空から羽田 へ・・ここまで来ると同じ空の下で戦争が続いているのさえ信じられなくなってくる。自分がバグダットにい たのは夢だったのだろうか?とさえ思えてくる。羽田からは直接TBSへ。帰国したが、ニュースがあるので、自宅には帰らずに赤坂に泊まることになった。朝TBSからかかってきた電話にベッドに入ったままで て「ハロー!」と答えてしまった。僕の心はまだ帰国したいない。


電話リポート再掲



空爆6日前2003年3月14日2時00分
バグダッド中心街から3キロ離れたホテルから。マーケットも開かれ学校も授業が行われていた。しかし缶詰を買い出す市民も時折見られ徐々に戦争の影が忍び寄る。 いわゆるアッパークラスの市民を除き、一般市民には開戦の正確な情報は伝えられていなかった。
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空爆4日前2003年3月16日16時00分
アメリカ・イギリス・スペインの緊急首脳会談が行われブッシュ大統領は,17日の国連安保理で修正決議案協議を打ち切ることに合意した。 米英単独の開戦の可能性が高まったことを受けイラク国内にいる外国人が脱出を始める。
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空爆2日前2003年3月18日19時00分
ブッシュ大統領が,フセイン大統領に対し48時間以内に亡命しなければ攻撃を開始すると最後通告。バグダッド市内は不気味な静けさ。民家では窓に鉄板を打ち付け商店には物が無くなる。 人間の盾メンバーの主要施設への配置が始まる。現地通貨イラクディナールのレートも落ち始めた。
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空爆前日2003年3月19日22時00分
主要な交差点に対空砲や機関砲が配備された。多くの店が閉まる中、ダウンタウンでは子供の遊ぶ姿が見える。市民はすぐに脱出できるように車の整備や食料の備蓄をし一部の人は北部に疎開を始める。
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開戦当日2003年3月20日22時00分
現地時間5時32分、連合軍によるイラク攻撃が開始されイラク戦争は開戦した。バグダッドには巡航ミサイルと爆弾攻撃を開始した。久保田の宿泊しているホテル周辺でも対空砲火が始まる。
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戦争2日目2003年3月21日17時00分
イラク軍兵士の配置が市内全般から主要施設へ集中配備される。地上戦を意識したものと思われる。市内では革命の噂も飛び交う。メディアに対するイラク政府当局の監視が厳しくなる。
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夜になり開戦後最大の空爆が行われた。米軍はこの作戦を「衝撃と畏怖」と命名。
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戦争4日目2003年3月23日04時30分
戦争4日目。市内ではイスラムの祈りの声が聞こえる。地上からの対空砲火が沈黙する。
04時30分の電話リポートを聞く(wma形式)
この日は一日中空襲警報が鳴る。再び空爆。夜だけではなく日中も攻撃が行われるようになる。その最中でも羊の世話をする市民がいた。
18時00分の電話リポートを聞く(wma形式)
夜22時02分夜の攻撃。イラク軍の対空砲火は止み、代わって地対空ミサイルで反撃。上空には連合軍の戦闘機の音がする。航空機ミサイルと巡航ミサイルの両方で攻撃。
22時40分の電話リポートを聞く(wma形式)

戦争7日目2003年3月26日13時00分
砂嵐がひどい。バグダッド市内は停電。この日から一部の商店では営業を始める。イラク軍による対空砲火、対空ミサイル反撃は少なくなった。昼間の攻撃も継続されて行われるようになった。 バグダッド周辺にムジャヒディンが集まっているとの情報。
13時00分の電話リポートを聞く(wma形式)
バグダッド市内北部の市場にトマホークミサイルが少なくとも2本着弾。160人以上が負傷、15人が死亡したとの情報。米軍は誤爆を認めた。
16時30分の電話リポートを聞く(wma形式)
人間の盾が市内でデモ行進を行う。チグリス川西岸は徹底的な攻撃を受けていた。爆風により対岸のホテルの窓ガラスも割れている。
16時45分の電話リポートを聞く(wma形式)

戦争8日目2003年3月27日15時25分
久保田の宿泊するホテル近くに連合軍が攻撃。フセイン一族の宮殿が攻撃されたと思われる。対空砲火による反撃あり。
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戦争9日目2003年3月28日10時30分
前夜からの空爆は止まない。朝6時45分、日中としてはかなり激しい攻撃が行われる。
10時30分の電話リポートを聞く(wma形式)
空爆を尻目に市内では商店が再び開かれ子供たちの遊ぶ姿が見られるようになった。市内に配置されていたイラク軍の戦車が移動を始める。
19時00分の電話リポートを聞く(wma形式)