戦後イラク2006
イラク戦争から3年。日本の自衛隊も撤収に向けて本格的に動き出しました。戦後処理が着々と進むイラクですが戦後体制が解かれた訳ではありません。
ここでは2006年7月からイラクを取材したASIANEWSフォトジャーナリスト久保田弘信記者の記事を掲載していま
2006年7月
出発(2006年7月3日配信)
慌ただしく出発の準備をし、羽田空港に向かう。年々出発の準備が土壇場になりつつあるが、今回は特に酷かった。 家を出る寸前までジュネーブと国際電話をしていた。 それというのも、今回は出発直前になってイラクの状況が刻々と悪い方に変わっていったため、情報の収集に時間がかかってしまった。
空港にはアジアニュースのスタッフ二人と京都からの友人が見送りに来ていてくれた。 今朝、起きてからずーっとビビッテいた。入ってくる情報を総合するとあまりにも危険度が高いように思えてくる。 と、いっても自分の目で確かめなければしょうがないんだけど。 しかし、不思議な事にゲートをくぐる時にはなんだか落ち着いていた。
毎回使うエミレーツだが、関空についてからが毎度慌ただしい。今回は経費も相当かかるため、ダッシュで銀行に行き$を手に入れる。 あと、一応気分的な問題で機材の保険に入る。あっという間にbording timeになるが、飛行機に乗る直前まであちこちに電話する。 母親には昨日さりげなく電話しておいた。勿論イラクに行くとは言えなかった。
23:34take off.前方に見える星空がとてもキレイ。 飛行機の中で。 僕はまだ自分の人生が終焉をむかえるということがどういうことか良く分からない。インド、アフガニスタン、イラクで多くの人々の死を見てきた。 自分が動かなくなるということがどういう事なのか、まだ想像がつかない。 もしかしたら、それは永遠の安らぎなのかもしれないという希望もあるし、永遠の苦しみの始まりかもしれないという恐怖もある。 今日のエミレーツの椅子はみょうに堅くて眠れない。
イラクへ(2006年7月3日配信)
04:20予定よりかなり早くドバイに到着する。 早速荷物を受け取り、クルディスタンエアーのチケットをゲットするために動く。日本から電話とE-mailで予約したものの、本当に席が確保されている かどうか不安だ。チケットはどこで買ったら良いですか?と聞くと、みんな違う事をいう。でたよー。いつものたらい回しだー。なかにはクルディスタンエ アーなんて飛んでないよ!と言い出す人までいる。
最終的にターミナル1ではなく、ターミナル2だと言われた。日本での情報もターミナル2だったので、こ れを信じて動く事にする。しかし普通、ターミナル間ってシャトルバスとか走っているでしょう。タクシーしかないんだってさ。仕方なく善良そうなドライ バーを見つけタクシーでターミナル2に移動する。10$。
ドバイの空港は免税店が凄いが、ターミナル2は何もない。衛星携帯電話のプリペイドカードを買いたかったが、そんな施設もない。 今日の所は無事にチケットを手に入れられたということで満足しておこう。しかしフライトは10:00。まだ06:56。
7月2日の夕食。
日本からクルディスタンエアーのフライトタイムを調べたときはちょうどいい乗り継ぎだと思ったけど、大きな間違いだった。エミレーツが珍しく早く到着し たのも原因だが、チケットはうまく手に入れたが、チェックインは8時くらいだそうだ。まだ一時間以上待たなければならない。
08:10ようやくチェックインが始まる。荷物は20キロまで。恐る恐る荷物を乗せると、見事に23キロ。手荷物は多分15キロくらい。係員が「荷物は 一つですか?」と聞いてきたので、はい!一つです。と答え、窓際の席をもらいチェックインをすませた。僕の二人前のイラク人らしき人がオーバーチャージ を取られていたので、結構冷や冷やだった。
08:15イミグレーションを通過。 これで取りあえずアルビルまでは飛べる。係官にイラクのビザがないですが・・と言われたらどう答えようかと考えていた。ちょうどパスポートを更新したば かりなので、ビザの付いていない新しい方を持ってきてしまいました。こんなの通じないよなー。と一人心の中で笑っていた。 係官は写真と僕を比べ、カタカタと何かを打ち込み、出国のスタンプを押してくれた。新しいパスポートはまだタイの入国しか残っていない。以前のパスポー トなら色々と聞かれていたかも。新しい薄いパスポートに感謝。
ウエイティングルームに入った時、急激に眠気が来た。ボーディングタイムは09:30。荷物を抱えたまましばし眠りにつく。09:30をまわってもボー ディングアナウンスがない。結局飛行機に乗り込んだのは09:50。機体はB737。7割の席が埋まっていた。しかしなかなか離陸しない。待つこと30 分30人近い人たちが乗ってきた。最終的にほぼ満席になり、予定より50分遅れの10:50take off。アルビルまでは2時間45分のフライト。
途中、飛行機はクエート上空、バスラ上空を通過する。機内のクルド人達がクエートだ!バスラだ!と写真 を撮り始めたので僕も便乗して写真を撮った。バスラは戦争が始まる一ヶ月前にいた場所だ。あの当時が懐かしい。漁師が舟に乗せてくれた。今では訪れるの も至難の業とばかりに治安が悪化してしまった。ますますこの戦争はなんだったのかと思ってしまう。
僕の隣に座ったクルド人は人の良さそうな人、彼の携帯の画面を珍しそうに僕が見たことをきっかけに話すようになった。といっても彼は英語は殆ど駄目で、 僕の片言のファルシーを使ってお話をした。彼は会話の中で「アラビームシュケレ」と言った。クルド地区は比較的平和だけど、アラブの地域は厳しいらしい。
空港に着き、最大の関門であるアルビルのイミグレーション。 ・・・・・帰国まで内緒です。 パスポートにスタンプが押され、無事入国することができた。 空港の外にでる熱風が!2年前6月にイラクに来たときも暑かった。しかしそれ以上に暑い。アルビル空港なんて初めてだし、どうして良いか分からなくてウ ロウロしていると英語を話せる人が「あのバスに乗ってエントランスまで行くと良いよ。そこまで行けば色々な案内があるよ」と教えてくれた。確かに空港は ターミナルがあるだけで、何もなかった。シャトルバスの発車を待っている間にも汗がしたたり落ちる。 両替をし、何とかタクシーをつかまえて市内に向かう。常岡氏が教えてくれたアルビルキャッスルの近くのホテルに向かう。 ホテル到着、チェックイン。
シャワーを浴び、服を着替え、街に繰り出す。今のアルビルがどれほどセンシティブなのか分からないため、カメラはバッグの中にしまったまま出かける。予 想以上に街中の雰囲気は良い。しかし僕はあきらかに外国人とわかるのだろう。街の人たちが僕を見て挨拶をしてくれる。 アイスクリーム屋さんがあった。ちょー暑いし、お店の人とお話すれば色々なことが見えてくるのでアイスクリームを食べることにした。
アルビルの警察。カメラを持ったまま通っていたら呼び止められた。なんだろうと思いきや写真を撮ってくれという。
経済発展が著しくマツダの新車が走っていた。
アルビルの子供たち
アルビルでは初日からアイスクリームをおごってもらってしまった。
アルビル城の前に来た米軍車両。
アルビル初の総合デパート。これまた初のエスカレータつき。ナザモール。
7月3日
クルド(2006年7月7日配信)
前回イラクに来たときはスレイマニアまでしか来ていない。 つまりアルビルは右も左も分からない。とはいえ同じクルディスタン。雰囲気はなんとなくスレイマニアに似ている気がする。 昨日感じたようにクルド人の僕に対する感情も非常に良い。
一つだけ残念なのはアルビルはスレイマニアほどファルシーが通じない。 やはり言語は大切だ。ほんの片言でも現地の言葉を知っていれば自分の行動は10倍楽になるし、危険も10倍見えてくる。
ともあれ、まずはインターネット。高いホテルに泊まればネットが完備されているのだろうが、僕の泊まったホテルにはネット環境が整っていない。 仕方なくネットカフェを探しに行く。詳しくは書けないがジュネーブにいる僕の友人が色々な人に声をかけてくれて、僕がアルビルで行動しやすいようにして くれた。持つべきは友。 ジュネーブにお礼のメールを打っていたらあっという間にお昼を過ぎてしまった。
真夏の日本より暑いアルビル。ちゃんと食べないと体が持たない。 かなり遅い昼を食べる。昼ご飯はシュワルマ(肉を挟んだサンドウィッチみたいなもの)。 ご飯を食べ、コンピュータを置きにホテルに帰ってきたら突然眠気が襲ってきた。昼はありえんくらいに暑いし、少し休もうと横になった。僕としては珍しく 2時間も寝てしまった。 衛星携帯電話スラヤのプリペイドカードを手に入れなければならないので、頑張って起き,電話屋さんを探しに行く。
7月3日の昼食。
アルビルには沢山の携帯屋さんがある。サダム時代は携帯を持っているだけでスパイ扱いされて死刑になったそうだが、今では解禁され、多くの人が携帯を 持っている。安い物は30$くらいからあり、固定電話の回線状況が悪いこともあり携帯の復旧率はすごい。 あちこちの携帯屋さんをまわるが、スラヤのプリペイドカードを置いている店がない。
4件のショップのオーナーが「うちにはないけど、スラヤのショップが あるよ」と場所を教えてれた。結構、行ってみると存在しないことも多いが、今回はショップの人が教えてくれた場所にスラヤショップがあった。 無事にプリペイドカードを買うことができた。一昔前(アフガニスタン時代)僕は携帯なんて持っていなかった。イラクのような刻々と治安が変化する国では 携帯が僕の命を救ってくれることもある。貧乏人の僕には辛いけど。笑!
再び、ネットカフェに行くってメールをチェックすると、な!なんと、音信不通だったイラク人の友人からのメールが届いていた。宗教的な理由もあり、イラ ク国内でかなりやばい状態だと聞いていた。そんな友人からのメールをクルド地域とはいえイラク国内で受信できたのも何かの縁。 戦争中からの友人の無事が確認できてとっても嬉しかった。思わずネットカフェのスタッフに「僕の友人からのメールがきたよー」と叫んでしまった。
市内の電話屋さんへ行く。 スラヤから国際電話をかけるよりかなり安いため、緊急でない場合は電話屋さんを利用したほうがいい。 オペレーターが何人かいて、番号を紙に書いて渡すと電話してくれる。電話ボックスがいくつもあり、自分の電話がつながると「6番のボックスに入ってくだ さーい」と案内してもらえる。電話しに来ていたイラク人にインタビューするとバグダッドに住んでいる妹に電話しにきたそうだ。バグダッドで事件があった りすると心配で電話しにくるそ うだ。同じイラクなのにアルビルからバグダッドへは国際電話になってしまう。クルディスタンがイラクとは別の道を歩みは じめている象徴的な状況だった。
10日前にオープンしたばかりの新しいショッピングモールがあるというので出かけてみる。 アルビルで一番大きいというだけのことはある。食料品、衣料品、おもちゃ、すべてのものがそろっている。 別に必要ないような気もするが、2階建のこのショッピングモールにはエスカレータがある。
初めて見るエスカレータは子ども達のいい遊び道具になっていた一人のおばあさんが若者に手を引かれてエスカレータに乗ろうとしたが、 「私は無理よー」と笑いながら階段で2階にむかった。そうこうするうちに、一人の若い女性がエスカレータで転んでしまった。ちょうどシおョッピングモー ルのオーナーにインタビューをしようとしていたが、それどころではなくなってしまった。転んで起きあがれずエスカレータに運ばれていく女性の写真、・・ やはり撮れなかった。 昨日はチキンを食べたので、今日のディナーはカバブにする。 うまい、確かにうまいが。。全部食べ終わった時には、かなり胃がもたれた。こんな時はチャイ。食後に濃いチャイを飲む。 イラクにいると一日がかなり長く感じる。
2006年7月4日
イラクエア(2006年7月16日配信)
予約しておいた明日のチケットを受け取る為イラクエアーに行く。ところがイラクエアーの若いお 兄さんと僕の友人がなにか揉めている。 なんかやばそうな雰囲気。聞くと明日のフライトが取れていないらしい、しかも3日後までもグ ダッドへのフライトはないと言ったらしい。 僕の友人はかなり穏やかな人柄、その彼が怒るくらいだから余程酷い言い方だったのだろう。言葉 がわからない僕が見ていてもお客さんに対する態度ではな かった。
結局バグダッドへは行けなく なってしまった。しかしここで諦めないのが我が友、政治の偉い人を知ったいるからとなんだか電 話しはじめた。横から 顔色をうかがっている限り、話の展開はよさそうだ。電話を切ると友は 「任せておけ、チケットは手に入れる」と車を発進させた。 どこへ行くの?と聞くと、今紹介してもらったエージェントに行くという。へー!すごいなー。と りあえず任せてみよう。 エージェントは難なく6日のバグダッド行きのフライトチケットを発券してくれた。あれー?イラ クエアーのお兄ちゃん3日間飛ばないって言っていたのに。
確かに明日のフライトは米軍の作戦 行動の為キャンセルになったそうだ。しかし3日後までフライトがないなんてことはないよ。と エージェントは言う。もし 僕が一人だったら、外国人だし、イラクエアーの言うことを信じるし かないし、当分バグダッドには飛べなかっただろうな。 我が友に感謝。
国連のオフィスへ
UNHCRの友人を訪ねるため国連のオフィスへ向かう。 入り口は韓国軍によって警備されていた。これが米兵だとかなり厳しいんだが、そこはさすがお隣 の国。 ほんの少ししかしらないハングル語で挨拶。笑顔を見せてくれる。警備にあったている米兵は絶対 笑顔見せてくれないからなー。
チェックも終わりオフィスの中へ。オフィスのレセプションにはフィージーの国連軍がいた。これ また明るい人たちで、結構長時間待たされたが退屈しなかった。 パキスタン人のオフィサーに会う。彼とはメールだけの付き合いだったが、文章からとってもいい 人っぽいと思っていたが、実際会ってみると本当にいい人 だった。
僕がパキスタンには何度も いっていますよ。と言うと。「本当かー!」で始まり、北部ギルギット、フンザ、パスーの話題で 盛り上がってしまった。 クエッタにも何度も行っているし、その時クエッタのUNHCRにお世話に なったと言うと。「当時の代表は誰だったかい?」たしかコデ・シセーと言う人。 「おー彼か、 かれはもう引退してしまったよ」。「モハメッドヘイルやラティファバードへは行ったのかい」勿 論、何度も行きましたよ。 僕が見つけた少数民族のウズベク人をサイタさんという日本人のフィールドオフィサーがなんとか 難民キャンプに入れてくれたんですよ。 その時クエッタのセレナホテルでヤコブに会いました。「おーヤコブにも会っているのか?」彼は 今Bにいるはずだよ。と連絡先の番号を教えてくれた。
「と ころでクエッタ言えばサッジーだ が、食べたことはあるかい」、サッジー、ちょーうまいですよねー!他のスタッフは僕たちがなんでこんなに盛り上がってい るのか不思議な顔をしていた。注)サッジーとはクエッタの名物で塩 味のグリルチキン。 あまり、盛り上げってばかりいても悪いので、本題に入る。戦争終結後のイラク北部にある国内避 難民キャンプの動向を聞いた。 彼は詳しく教えてくれた。バグダッドから戻ってきたらまた来ます。というと「いつでも来なさい。気をつけて」と言ってくれた。
昼はグリルチキン
国連スタッフとサッジーの話をしたのでチキンが食べたくなった。友人に、さっき話していたみたいなチキンが食べたいんだけど。 とお願いし、チキンがある店に連れて行ってもらった。 やっぱりチキンが一番うまい。グルグルチキンを一つ食べた。ちょー満腹。
今日の取材をすべて終え、5時過ぎにホテルに戻ってきた、このまま休みたいと思ったが今日中に メールを確認しておこうと思い、ネットカフェに行く。 いつも僕が使う席を見ると先客が、あらまーと思っていたらネットカフェのいつものお兄さんが何 か言っている。よく見るといつもの席に座っているのは日本人だった。何となく見た顔と思って いると「久保田さんですよね!」。と言われた。あれあれ?と記憶を巡らせると二人の日本人は ずーっとクルドを取材し続 けるアジアプレスの玉本さんと坂本さんだった。道理で見た顔なは ず。クルド地域に来る前にホームページを見た。深い取材をしているなーと感動していた。
その二人と偶然出会うのも何かの縁。お話をしつつ二人のネットが終わるのを待っていると、なんと停電してしまった。今日中に出したいメールがあったのに なー。ま、これも運命。海外に出たとき はできるだけ流れに逆らわないのが僕のスタイル。流れに乗っていた方が結果が良い気がする。停電がなかなか復旧し ないのでアジアプレスのお二人が「食事でもどうですか?」と誘ってくれ た。国連で長話をして1時間前に遅いランチを摂ったばかりだが、そんなことで断る 訳がない。 よろこんで!
そして向かった先が昨晩カバーブを食べたレストラン。「僕昨日もここで食べたんですよ」と正直に告白。そこは長年の取材経験があるお二人。んじゃあ、ちょっと離れていますが おしゃれなレストランに行きましょうと言ってくれた。 まるで現地人のようにタクシーを止め行き先を告げる坂本さんに感動してしまった。パキスタンや アフガニスタンなら僕でも多少は・・しかし坂本さんほど流 ちょうに現地の言葉を話すことはできない。
おしゃれなレストランはイラクエアーのオフィスの近くにあった。二人に比べたらイラク に来たばかりの僕だが、 何かこっちの料理じゃないもの食べたいなー!などと我が儘を言うと玉本さんが「パスタがあるかどうか聞いてみますよ」とこれまた流ちょうな現地語で聞い てくれた。ラッキーな事にパスタがある!まがい物でも良いから麺が食べたいと注文した。出てきたパス タは限りなく本物に近い味で、お腹7分目だったのに 結構沢山食べてしまった。食事をしながら 二人は同じアジアプレスの綿井氏の話等々面白い話を一杯聞かせてくれた。 ネットカフェに行くかどうか迷ったのが今日の出会いの運命を作ったね。10年以上クルドを取材 し続けるお二人に敬服しました。
ネットカフェへ
意外な程、接続速度が早いのに驚く。初日にローミングに手こずったせいかもうスタッフは僕の事を覚えていてくれている。ネットカフェにタイタニックの音楽が流れる。懐かしいなー。my heart will go on and on〜あれから何年経っただろうなどと考えながらメールをせっせと送る。
レジデントオフィスへ出頭しなさととのことなので、場所を探すがよく分からない。これは外国人にはつらいねー。結局街の中心部からかなり離れたとことにオフィスはあった。お役所というのは万国共通のようで・・散々待たされ、あちこちたらい回しになった。左手の親指の指紋を採られてしまった。ふと気づけばもう13:45お腹減ったー。
14:10ようやく解放された。お腹空きすぎて調子わるーって感じだったので、軽くシュワルマを食べる。こっちに来るとペプシばかり飲んでしまう。他のジュースは妙に甘いから。韓国軍がきているので、ちょっと行ってみようと思い、韓国軍のベースへ赴く。アポなしだったが、結構簡単に中に入れてくれた。日本の自衛隊も海外のメディアには親切にしているのかなーっと思った。韓国の大佐クラスで日本語を完璧に話せる人たいると聞いたので面会を求めたが、さすがにアポ無しでは無理だった。小一時間ほど韓国の兵隊さんと雑談して帰ってきた。韓国は兵役制度があるせいか、みんな若い兵隊さんだった。しかし、長い一日がとても長い。イラクに来てまだ三日目なのにもう一ヶ月もいるような感じがする。三ヶ月も滞在しているアジアプレスの人は本当に凄いと思う。
2006年7月6日
バグダッドへ(2006年7月21日配信)
7時の約束だったが、ペシュワールは6時40分に迎えに来てくれた。空港には7時ちょうどに着いた。
アルビルにきてからこんなに朝早く起きたことなかったけど、7時台の空気はとっても気持ち良く過ごしやすい。 アルビル空港はチェックポイントからターミナルまでがとても遠い。目の前でシャトルバスが出発したばかりなので次のシャトルバスを待つ。日本から持って きて冷蔵庫にいれっぱなしだった栄養ドリンクを飲む。待つことやく10分シャトルバスが来た。シャトルバスに乗り、ターミナルへ。いつも思うが日本の羽 田空港が一番セキュリティーにうるさい。アルビルではコンピュータもカメラも何も言われることなくターミナルに入ことができた。
すでに多くの人がチェックインカウンターに並んでいた。カウンターは3つあるが、どこ行きか全くサインがない。よくあることで、どのカウンターでも大丈 夫だろうと思い、一番すいているカウンターに並んだ。僕の順番がきてチケットとパスポートを出すと「イラクエアーは向こうのカウンターです」と言われて しまった。マジかよー。みんなどうしてわかるんだろう!仕方なく違うカウンターに並びなおす。と、すぐ前の家族連れが、「え!ストックホルムはこの列 じゃないの?」と慌てて別の列に加わった。なんだイラク人でもわからないんだ。
今日だけでもアンマン、テヘラン、ストックホルムへの国際線フライトがある。小さな空港だけど本当に国際空港として機能しているようだ。みんなーいいなー。僕はバグダッドかー。まるで地獄への往復切符みたいだ。ま、片道切符 じゃないだけいいか。 定刻まで後10分だけど本当に定刻通りとぶのかなー?waiting roomはどのフライトも共有なので自分のフライトの順番を見逃さないのが大変。今も人が沢山動いたが、アンマン便だった。
なんのアナウンスもないのが やっぱりイラクらしい。そうそう、「もし可能なら窓際の席をお願いします」と言ったら「all the seat is free」とおばさん笑顔で言った。でたー。パキスタン以来だな、自由席の飛行機は。 08:15waitinng room の外に荷物の山がある。その中に一際目立つオレンジ色のスーツケースがある。僕のだ。これは助かった、あの荷物の山が動かない限り飛行機は飛ばないもん ね。やっぱりスーツケースは目立つ色に限る。
08:45RJの飛行機が到着した。イラクエアーはどうしたかなー?09:10人々が動き出した。バグダッドという声がかすかに聞こえた。 出発直前後から「お元気ですか?」と声をかけられた。振り向くとそこには韓国人のおじさんがいた。アムステルダムに行くそうだ。これまた羨ましい。飛行 機に乗り込むとスッチー?がドバイからアルビルに来たときと同じ人だった。ってことはこのフライトはイラクエアーとクルディスタンエアーのコードシェ アー便なんだろうか。 09:40take off。
機内でチャイを頼んだら角砂糖を4つも入れてくれた。さすがイラク。 10:15突然飛行機がスパイラルロールに入った。よく見ると眼下に滑走路が見える。えらく早いなー。 フファルージャがやばくなったときバグダッドから飛んだが、その時は離陸のスパイラルロールだった。着陸のスパイラルロールはちょっとこわい。 窓から見ると、毎日のように殺戮が行われているバグダッドとはとても思えない。やっぱり悪いのは人間なのかな。 10:36無事着陸。
地上の温度は30度。アルビルよりかなり過ごしやすそうだ。 バグダッド空港に着いて友人に連絡を取ろうとしたが、公衆電話が全部外されている。スラヤを使うには空港の外にでなければならないし。 仕方なくイラク人に携帯を借りて電話する。お迎えはチェックポイントまでしかこれないようで、チェックポイントまではタクシーで行くしかない。
再び電話するとチェックポイントに着くのは12:30だそうだ。暑いし、空港の中で待っていようと思ったら、空港の係官が二度と中に入れてくれなかっ た。しまったー!外に出なければよかった。
友人を待つ間だバグダッド空港の入り口近くで佇む。少し強い日差しの中鳥のさえずりが聞こえる。ここにいるとバグダッドが準戦争状態とはとても思えな い。そういえば、戦争が始まる直前もバグダッドで犬が鳴いていた。ゴミ箱では猫が餌をさがしていた。動物たちにはえらい迷惑なことだと思う。結局人間が この地球を汚しているんだなーと実感してしまった。僕は理想主義者ではないので、人が生活するなかで少しづつ地球が汚れていくのを完璧に止めるなんてで きないと思っている。しかし、戦争が原因で地球を汚すのは愚かにも程がある。
空港の外にはチェックポイントまで10000ID,市内まで25000IDという案内表示がある。これはかえってぼられなくてすむから良いが、市内まで タクシーで行くのは少し勇気がいるな。値段は良いとして拉致されたらどうしようもないからなー。この値段だったら直接ホテルに行った方が僕としたは楽 だったけど、今は慎重に行動するしかないんだろうな。
チェックポイントでなんとか友人と合流。緊張しつつ、ホテルまでドライブした。もしかしたら、攻撃されるかも、と思うと危険を承知でカメラのスイッチを 入れた。やっぱその瞬間は記録しておかないと。手に汗をかいた。これは暑さのせいでは無かった。交差点で車が止まるたびに周囲の人の僕への視線が熱い。 あまり良い感情の視線ではない気がする。20分ばかりのドライブで無事ホテルに着くことができた。 取りあえずバグダッドに入ることができた。日本をでてからあまり寝ていないので今日はもうベッドに入ることにする。
3時半、あまりの暑さに起きる。 どうやら停電したらしい。エアコンが泊まるとホテルの部屋の中はサウナ状態。 戦後三年も経っているのにこの停電はひどい。
2006年7月7日
1周年(2006年7月22日配信)
ロンドンテロ事件の1周年で、BBCが詳しいニュースと2分間の黙祷ってやっていた。 偶然だけど9.11の時と似ている。あの時も僕はアフガニスタンで1年目のニュースを見た。 確かに双方とも多くの人が亡くなった。でもイラクやアフガニスタンで亡くなった人は追悼式典なんてしてもらっていない。 いつも不公平を感じてしまう。
今日は金曜日、しかもイラクに着いたばかりだし、外出は避けたほうがいいと判断し、ホテルにこもる つもりだったが、外に出たくなってしまった。取りあえずセキュリティーエリアの中だけでも歩いてみようと思う。あちこちにセキュリティーBOXがあって 銃を構えた人が立っている。このエリアでの新顔の僕はあちこちで止められる。その度にこの人偽物だったらどうしよう?と思いつつ、笑顔で挨拶。
近くのホテルに夕食を食べに行く。暗がりのホテルの前に二人の人が立っていた。こちらからは逆光でよく見えないが、向こうからは見えるようだ。僕を確認 すると「もしもしー」と叫んできた。これは!やはりフラワーズランドホテルのスタッフだった。通訳がいなくてよく分からないが身振り手振りで話しをす る。僕はタバコを吸わないが、タバコを勧めてくれたので、一本頂き、一緒に吸った。
フラワーズランドホテルでずーーと働いているエジプト人は自国に帰り たくてもフラワーズランドホテルが閉まってしまっているため働く場所がないと嘆いていた。 戦後間もない頃からハムラーホテルではチャイニーズディッシュを出してくれる。メニューを確認すると、見事チャイニーズディッシュはあった。 夕食はチャイニーズフライドヌードルにする。何となくきしめんのような麺だ。肉ばかりのイラクで麺が食べられるのはありがたいことだ。
しかし、レストランにいるのは僕だけ、外国人ジャーナリストも泊まっているらしいが、みんなルームサービスでレストランには来ないそうだ。 これはあまり良い状態じゃないなー。 20:30完璧に停電、サブも動かずに、ホテルの中は暗闇と化した。暗闇の中爆音が轟く、ベランダに駆け寄るとコブラだろうか?米軍のヘリが2機窓と同 じ高さを飛んでいった。
2006年7月8日
外出と非常食(2006年7月23日配信)
とにかく停電が多い。日本と連絡をとり、メールを送っていたが、またもネットダウン。 本当に2年前の方が環境が良かったと感じる。 今日は朝からジャドリエストリートall closeになっている。サダルcityでの戦闘が原因なのだろか。誰に聞いても原因はわからない。
道路封鎖は13時過ぎに解除された。 これはチャンスだと思い、イラクの友人と市内に買い物にでかける。道路封鎖が続いたいたと言うことは武装勢力も動きにくかった筈と判断したのだ。 戦前からよく利用していたスーパーマーケットに行く。
車を止めると同時に銃を持ったセキュリティーが近づいてくる。緊張が走る。しかし笑顔で「アッサ ラーム アレイクム」と挨拶し、右手を差し出す。セキュリティーはIDを見せなさいと言う。慌ててでてきたため、プレスカードを持ってこなかった、仕方なくパスポートを見せるとセキュリティーはパスポートを持って行ってしまう。ヤバイなー。偽物のセキュリティーだったらどうしようと考えているとセキュ リティーは帰ってきた。どうも責任者に問い合わせたようだ。「撮影は駄目だが、買い物ならしていい」と。
予想以上の神経質な態度に今のバグダッドの治安 の悪さが伺える。(教訓、出歩くときはパスポート以外のIDを絶対持って行くべし) 翌日も同じスーパーマーケットに行くが手をあげて挨拶するだけで、チェックなしで買い物ができた。この辺りがイラク人らしい。一度、大丈夫と思うとノー チェックになってしまう。このおおらかな気質が災いして各地でテロ事件がおきている。
3日目にしてようやくお部屋の掃除がしてもらえた。どうもホテルのスタッフが少ないようだ。 一年前にモスクが攻撃されてから誰も信用できなくなった。とイラク人が話してくれた。あまりに多くそんな事件があるので、どの事件の事か僕には分からな かった。
20:35またまた停電。 さすがに戦後三年経ったイラクには懐中電灯はいらないと思っていたけど甘かった。 今日の夕食は無し。 近くのホテルに食事に出かけてもいいのだが、なんかイヤな雰囲気が漂っている。一応そこそこのセキュリティーがあるエリアなんだけど、警備にあ立ってい る人の目がなんだか緊張している気がする。こんな時は動かないのが一番。 非常食用に買っておいたプリングルズ(イラクバージョン)を食べる。日本ではお菓子なんて食べない僕だけど、今はお菓子も貴重に思える。 予想以上に美味しいし。笑! 後に分かったことだが、アジアプレスの人も非常食はプリングルズとチーズだそうだ。僕とまったく同じ組み合わせに驚いた。日本人の好みが似ているのと、 チーズで栄養を摂り、プリングルズで満腹感を得ると言うことだと思う。
2006年7月9日
ついに外出(2006年8月11日配信)
スーパーに買い物に行ったことで幾分、市内の様子がつかめてきた。 今日は本格的に取材にでかける事にする。バグダッド市内の地図を見ながら、絶対に行っては行けない場所と警察や軍のチェックポイントがよく出現する場所 をチェックする。
戦前の戦後、そして2年前の記憶をたよりにルートを決定する。 困るのは僕が方向音痴だということ。2年前に来た時行ったパンやさんの正確な位置が思い出せない。 紙にホテルの位置、パレスティナホテル、サドゥーンストリート、カラダストリートという僕の記憶にある場所を書き入れていく。
本当は地図に直接書きたい所だけど、誰かに見られると危険なので紙に書いて、取材が終わったら破ってすてるようにする。 何かあった場合、僕の事を何とか助けて欲しいけど、自分の身に危険が及ぶと思ったら逃げてくれて良い。 この事をイラク人通訳と何度も確認し、出発する。
ずーっとスーツケースの中に入れっぱなしだった電子手帳をバッグに入れる。 何故かって、もし武装勢力に捕まったとき、僕の英語能力で伝えられないことがあって殺されるのはイヤだから。 普通の会話は問題ないが、微妙なニュアンスを伝えるには僕の英語能力は足りなさすぎる。 話し合いの結果、車の中に隠れているとかえって怪しまれるので、助手席に乗り、チェックポイントがあったらドライバーと話しているふりをして決して チェックポイントにいる警察や軍と目を合わせないようにする。 市内に向かう間だにいくつかのチェックポイントに出くわしたが、前述の方法でなんとかクリアした。
街中は二年までに比べて殺伐とした空気が流れていた。特に酷いのはサドゥーンストリート。閉まってしまった店が多く、ゴーストタウンのような感じになっ てしまっていた。戦後間もないころは一番活気があった場所なのに。イラク人に聞くと、テロは勿論、泥棒や誘拐も多く、お金持ちはみんな店をたたんでし まったそうだ。この近くに二年前再会したマリアムさんが住んでいるが、危険度はかなり高く立ち入らない方がいいとイラク人に言われ、あと少しの場所まで きたものの車を降りることを諦めた。
2006年7月10日 イラク日記番外編
「再開」(2006年7月15日配信)
戦争中に出会った家族に再会できた。 イラク戦争が始まった時、多くのイラク人は大した空爆はないと思っていた。 ところが3月21日、7時間にも及ぶ空爆が行われ、イラク人も今回はヤバイと思い始めた。
僕が泊まっていたフラワーズランドホテルの地下に近所のイラク人が避難してきた。 その時、地下シェルターの中で緊張し、今にも泣きだしそうな女の子がいた。 僕は急いで自分の部屋に戻り、ノートパソコンを持ってきた。 緊張していた女の子に日本の写真と日本の音楽を聴かせてあげた。 女の子は笑顔を見せてくれた。 それ以来、僕は毎日地下シェルターに行くようになった。
2年前にバグダッドを訪れた時、その家族のお父さんがフラワーズランドホテルのスタッフとして 働いていてビックリした。 2年前に再会しているから、今回が三度目。 同じ場所に住んでいる事を祈りつつ、家を訪ねた。 すぐ隣のアパートが大きく破壊されていた。 聞くと、昨年隣のアパートに自動車爆弾が突入し多くの人が亡くなったそうだ。
記憶にある家を訪ねると家族は無事で同じ家に住んでいてくれた。 勿論、みんな僕を覚えていてくれた。 爆発の時大丈夫だったの?と聞くと、我が友人の家族もみんなが怪我をしたそうだ。 幸運にもみんな軽傷だったそうだ。 お母さんが「今のような治安が悪い中わざわざ再会しにきてくれてありがとう」と言ってくれた。
小学生だった一番下の娘は13歳になっていた。前回、会ったとき、戦争の後遺症で学校に行けな くなってしまった と言っていた。今はどうですか?とお母さんに聞くと、お姉ちゃんは学校にいっているけど、下の子は今も学校に行けないままなんですよ。と教えてくれた。戦争の後遺症が癒えるかどうかという 時に隣のアパートが爆破され、彼女自身も怪我をしてしまった。彼女の心から戦争の記憶が消える ことなどありえないのかもしれない。
上のお姉ちゃんは年頃(16歳)なので僕と軽く握手しただけだったが、妹は両方のホッペに チューしてくれた。 彼女は勿論、英語なんて話せないが戦争中、一緒にいた日本人が来てくれたことをとても嬉しく 思っているのが伝わってきた。 地下シェルターの時と同じように僕に心をひらいてくれるのが嬉しかった。
しかし、いつになったらこの家族に平和が訪れるのだろう。 おかあさんはいつも笑顔。「神様がなんとかしてくれますよ」と言う。 「前回、あなたが来てくれたあと、治安が良くなったから今回あなたが来てくれて、また治安が良 くなると思うわ!」 僕には何もできない。こんな大変な状況がイラクで続いていることを知ってもらうことしか。涙!