竹島
シリーズ4「消え行く竹島漁師の記憶」
島根県隠岐島町竹島。これが日韓緊張の海となる竹島の日本側の正式な住所だ。 韓国側のマスメディアも交えた熱い論争と異なり日本で竹島問題はこれまで腫れ物に触るかのような扱いだった。 体系的に資料を収集整理することさえおざなりの状況。竹島に関わる人々は貴重な証言や記録が歴史の中に埋もれていくことを懸念する。
<追記>
その後、島根県は資料の体系的な整備を行い、現在、貴重資料で構成される竹島アーカイブスが公開されています。
島根県の竹島ウエブサイト
極秘の操業依頼
島根県隠岐の島。 日本海に浮かぶ人口およそ1万7千人の島だ。 2005年8月11日。この島である漁業関係者が亡くなった。 亡くなったのは脇田敏さん。
竹島で漁をしたことのある漁師だった。 息子の和彦さんが父の思いを語ってくれた。
「竹島に行って漁をすればいいのだけどそれはもう叶わないと。あくまでもあきらめているような境地でしたね」
隠岐の島から直線距離で157キロ。 竹島は島根県隠岐の島町に所属する。
島根県「竹島とは」
亡くなった脇田さんはこの島で最後の漁をした一人だ。 韓国が竹島の実効支配を始めたのは昭和29年10月。 実はその半年ほど前の5月に島根県の職員と漁業関係者が竹島で漁を行っていた。 脇田さんはこの時、竹島に渡っているのだ。
「島根県水産部漁政課の人から極秘に相談を持ち掛けれた。竹島で漁をして欲しい、実績を付けて欲しいと。海上保安庁の人からも君たちの生命は守るから頑張れと。 安全を保障するけれども100%の確信は無いと。そういうようなことまで一応言われて、どうも出漁したみたいです」 (脇田和彦さん)
戦前、日本は世界有数の漁獲高を記録していた。日本が植民地化していた韓国の沖を始めとする日本海が、その中心だ。 戦後韓国沖の海域は返還されたが昭和27年(1952)、韓国は資源保護を理由に
李承晩ラインを設定し、 ラインを超える日本漁船は徹底的に拿捕される。違反した漁船は韓国海洋警察により臨検・拿捕の対象となり、銃撃される事態まで起こった。
昭和40年に
日韓漁業協定成立。このラインは廃止されたが日韓漁業協議会によると、廃止までの13年間に拿捕された漁船の数は328隻、 抑留された船員が3929人、死傷者が44人に達し、損害額は当時の金額で90億円を超えた。
島根県発行「フォトしまね」
鳥取県「日韓漁業問題について」
鳥取県米子市にある図書館に竹島に操業したときのフィルムが残っていると聞き取り寄せた。
セピア色のサイレントフィルム。 音のない画面の中で漁師たちが活き活きと島に上陸する。 波音や漁具の音が聞こえてくるかのような姿が記録されている。竹島の荒々しい地形。 今ここに日本人が上陸し撮影することは困難だ。
かつてここから竹島へ向け操業のために出発したと言う隠岐島町五箇地区の久見港に立つ。 日本海にまっすぐ面した小さな港。岸壁に竹島のことがペンキで記されている。
「この先に返してもらいたいいい漁場がある」
そう語るのは島根県五箇村の漁協で組合長をしていた八幡昭三さん。 かつて親族が竹島に上陸をし、漁を行っていた。 叔父の伊三郎さんが書いたと言う竹島の漁場について詳細を綴った地図を見せてもらった。 詳しい地形とともに「ここの洞窟にはアシカがいる」「昆布がとれる」など漁のポイントが細かく記されていた。
別の資料には日付とともにその日何が収穫されたのか記録されていた。 昆布・あわび・さざえなどの名前が並び豊かな漁場であったことがうかがえる。 八幡さんは叔父らが残した資料を一人で保存し、状態の悪いものはワープロで打ち直しながら島根県などに送っている。 かつてこの島でこれだけの恵みがあったことを出来るだけ多くの人に理解してほしいという気持ちでやっている。 感情論だけではなく実際に「価値」のある島であることを訴えていきたいと考えている。
島の周辺海域、つまり日韓暫定漁業共同管理水域内は潮がぶつかり、漁業関係者の間では魚の多い海域として知られる。 しかしここでの操業も平等とは言いがたい。その一つは禁漁期間の問題だ。 日韓双方とも資源保護のため一定の禁漁期間を設けている。
しかし日本側が2ヶ月なのに対し韓国は1ヶ月しか設定しておらず 日本の禁漁期間中に韓国漁船が操業することに対する不満は大きい。 さらに日本では禁止されている底刺し網を排他的経済水域を超えて違法に設置する韓国漁船も多い。
日韓漁業共同管理水域(鳥取県ウエブサイトから)
「操業の現状と問題点」鳥取県HP
「日本だってほめられる様な事ばかりしているわけではない」そう語る漁業関係者もいた。 両国共通のルールに沿って操業しているわけではないのだ。だからトラブルも起こり双方に不満も沸く。 しかし隠岐島の島民にはあきらめの声が多い。島最大の港がある西郷で聞いた。
「竹島のことは良く知らない」「分からんねえ、あんまり」「資源が豊富なのは話に聞いている」 そんな答えが返ってきた。
八幡昭三さんは怒りというより諦めの口調で語る。 「竹島のことでどれだけの時間と費用を使ったことか。本当に腹が立ちます。 これだけ多くの人が竹島に行き、政府へ働きかけをしているのに今まで政府は何の対応も行ってこなかったんです。情けない」
八幡昭三さん
個人でこうした資料の収集を続ける八幡さんに対して批判的な声を我々も聞いた。
メディアは資料を持つ八幡さんへの取材に集中しがち。それが「目立つためにやっている」と思われている。 それでも誰かが続けねば資料としての価値はなくなる。 八幡さんは「先祖の記憶」を「記録」として残すための作業を孤独に続ける。 北方領土問題と異なり住民が居なかったこと、また竹島での漁の恩恵を受けられる 当事者の数が少ないことなども地元を含めた世論の関心の低さの背景だと言えよう。
2005年5月18日。相次ぐトラブルに対処しようと 日韓双方の政府が漁業問題でようやく交渉の席に着いた。 暫定水域内での秩序や漁業資源の保護が話し合われたが具体的な解決方法はまだ解決されていない。 また2005年2月には、島根県議会は竹島の日を設定。国に対して様々な呼びかけを行うとしている。 澄田信義島根県知事は 「これまで竹島問題は国の外交努力に負うところが非常に大きくあった。これから今まで以上に県民国民世論の啓発をやっていかねばいけない」と語る。
竹島に上陸した最後の漁業関係者は現在病床についており、我々もインタビューを行うことは出来なかった。
日韓両国間で領土問題を話し合おうにも日本では竹島に関する資料が体系的に殆ど整理されていない。 地元隠岐島町の郷土館を訪ねる。畳2畳ほどのほんの僅かなスペースに並べられた島の模型や写真。それが地元隠岐島で公的に展示されている資料の全てと言って過言ではない。
貴重な証言や資料を次世代に伝える努力が今こそ求められている。 それは領土問題を語る以前に国家としてなすべき義務なのではないのだろうか。
(記事:板倉弘明)